稲葉知通
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稲葉知通像(臼杵市・月桂寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 承応元年9月19日(1652年10月21日) |
死没 | 宝永3年4月15日(1706年5月26日) |
改名 | 通周、知通 |
別名 | 市正(通称) |
戒名 | 本霊院殿一嶽宗泰大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 豊後臼杵藩主 |
氏族 | 稲葉氏 |
父母 | 父:稲葉信通、母:織田信良の娘[1] |
兄弟 | 景通、知通、通行、花山院定誠室、織田信久正室ら |
妻 | 溝口重雄の三女・加井 |
子 | 恒通、通大ら |
稲葉 知通(いなば ともみち)は、豊後国臼杵藩の第6代藩主。
略歴
[編集]第4代藩主・稲葉信通の三男。母は織田信良の娘[1]。正室は溝口重雄の娘。子は稲葉恒通(次男)、稲葉通大(三男)。官位は従五位下、能登守。初名は通周。通称は市正。
元禄7年(1694年)、兄で先代藩主の景通が死去したため、その跡を継いだ。藩政においては道路改修や商業発展などに尽力した。宝永3年(1706年)4月15日、55歳で死去し、跡を次男の恒通が継いだ。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。
系譜
[編集]父母
正室
- 加井 ー 溝口重雄の三女
子女
知通は複数の有名な戦国武将の子孫である。本能寺の変は明智光秀が織田信長を襲撃し、自害に追い込んだことで著名であるが、知通は両者の玄孫に当たる。また細川忠興の曾孫、丹羽長秀の玄孫、斎藤道三の来孫でもある。
明智光秀 | 細川ガラシャ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多羅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
細川幽斎 | 細川忠興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稲葉貞通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稲葉典通 | 稲葉信通 | 稲葉景通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤道三 | 女 | 稲葉一通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹羽長秀 | 女 | 稲葉知通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木造具政 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
濃姫 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
織田信良 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
織田信長 | 織田信雄 | 織田高長 | 織田信久 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||