竹井澹如
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竹井 澹如 | |
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生誕 |
天保10年12月3日(1840年1月7日) 上野国甘楽郡羽沢村 (現群馬県甘楽郡南牧村) |
死没 | 大正元年(1912年)8月7日 |
別名 | 万平(通称) |
職業 | 政治家 |
竹井 澹如(たけい たんじょ、天保10年12月3日(1840年1月7日) - 大正元年(1912年)8月7日[1])は、上野国甘楽郡羽沢村(現在の群馬県甘楽郡南牧村)出身の政治家。通称「万平」[2]。
略歴
[編集]天保10年(1839年)に羽沢村の豪族、市川五部兵衛の六男として生まれる[1]。嘉永5年(1852年)14歳の時に江戸に出て、藤森弘庵の塾で学問を修め、斎藤弥九郎に師事し剣を学ぶ[3]。
慶応元年(1865年)27歳の時に熊谷宿で本陣をつとめる竹井家を継ぎ、14代当主となる。以後、熊谷の発展に尽力する[4]。
政治家としては、明治12年(1879年)に設置された埼玉県会の議員に当選、初代議長に就任する。翌明治13年(1880年)には辞職するが、以後も熊谷の発展に尽くす[5]。
大正元年(1912年)に74歳で死去。熊谷寺に葬られたが、その後、墓地は熊谷市内大原に移動され、市指定史跡となっている[6]。
辞世の句「短夜の水にくづるる篝火かな」[3]。
事績
[編集]※『熊谷市史 後編』による。
- 防波堤万平出しの築堤
- 自身の私財を出資して堤塘を復旧した。
- 荒川河川桑園の開拓
- 吉岡地内の荒地を利用して蚕業の開発を行った。
- 熊谷県庁の招致[4]
- 中等教育機関の設置
- 学生誘掖会創設
- 学生誘掖会を渋沢栄一等と開設。
- 「玉の池」の整備
- 熊谷の街路の開拓
- 熊谷堤桜樹の栽植