竹内健 (劇作家)
竹内 健(たけうち けん、1935年3月2日 - 2015年12月23日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家、怪奇小説作家。偽史や神代文字も研究。劇団「表現座」主宰。日本オリエント学会会員。『ユビュ王』を翻訳した。
来歴
[編集]1935年(昭和10年)、愛知県名古屋市に生まれる。父は紡績会社の社長、母は元教師、姉が二人。10歳のとき、戦災で家を失い、滋賀県に疎開。12歳のとき父が死去。
1949年、14歳で横須賀に転居。新聞配達をしながら中学高校に通う。17歳のとき母が死去。1953年、神奈川県立横須賀工業高校造船科を卒業。日立造船に就職。一年後退職。大工、沖仲士など肉体労働ののち、1957年、劇団四季に入団(作家志望、22歳)。半年で退団。その後、世界銀行の通訳として全国の石灰採掘会社をめぐる。
このころ(20歳前後)、重度の喘息を患い、鎌倉で一年間の療養生活を送る[1]。その間、ギリシャ語、ラテン語、古代エジプト語を独習。その後、エジプト人にアラビア語を習う。25歳ごろ、友人の学者の推薦で日本オリエント学会の会員になる[2]。西アジア史を研究し、中世アラビア旅行家の紀行文などを学ぶが、しだいに異端なもの[3] に興味が移っていったという[4]。
1960年、劇団「表現座」を主宰(25歳)。イオネスコなどの前衛劇を翻訳・演出。1961年、エールフランス入社(一年半後退社)。このころ、新宿の喫茶店「風月堂」に出入りし、ヨーロッパ人と交流する。興行会社「日進プロ」に勤めながら「日欧文化協会」を設立。フランス映画「かくも長き不在」を輸入したが売れなかった(26歳)。
1962年、ラジオドラマ「黒い塔」(音楽・武満徹)のシナリオ執筆。寺山修司の短編映画「檻囚」を共同演出。出演もした[5]。1963年、寺山作のミュージカル「青い種子は太陽のなかにある」(作曲・石丸寛)を演出。このころ、寺山とともに映画や演劇などを見て回る(28歳)[6]。
1964年6月、短歌グループ「律」の深作光貞に依頼され、韻文劇「青光記」を作・演出(草月会館ホール)。歌人の馬場あき子や映画作家の飯村隆彦などとの共同制作だった[7]。ロビーで三島由紀夫に絶賛されたという[8]。64年10月、東京オリンピックでフランスチームの通訳を務める。
1965年4月、アルフレッド・ジャリの戯曲『ユビュ王』を翻訳出版(30歳)。アングラ演劇界に衝撃を与える[9]。仏文学者の渋沢龍彦も書評で竹内の訳業を称賛した[10]。収録されている挿画・写真は瀧口修造に借りたもの。また、『現代詩手帖』1965年9月号掲載の「故郷とは何か:寺山修司論」のなかで、日本民族の由来に関する「異説・珍説」が数多くあることに触れ、「この種の文献を少なからず所有している」と述べている。
1966年、フランス語雑誌『EST-ORIENT』の編集主任となる(31歳)。これは日本の文化や歴史を紹介する雑誌で、パリのキオスクで売られた。表紙の写真は土門拳。竹内は歴史関係の記事を執筆[11]。同年、「発見の会」の瓜生良介の依頼で「ワクワク学説」を書き下ろす。1967~1968年、表現座は「埋葬伝説」「ワクワク学説」「般若由来記」を上演。1967年から1970年にかけて、少女向けの怪奇小説集を四冊出版する。
1970年、『ランボーの沈黙』出版(35歳)。ロングセラーとなる[12]。1971年、『図解ポーカー入門』を出版。このころ、雑誌に賭博関係の記事も寄稿している[13]。
1972年夏、雑誌『季刊パイディア』12号で「日本的狂気の系譜」特集を監修(37歳)、平田篤胤の神字論や偽史に関する記事を執筆。資料として原文の抜粋が掲載されている。この特集は、武田崇元らを触発した [14]。
1976年、雑誌『地球ロマン』復刊1号の偽史特集で、座談会に参加。特集全般にわたる助言も行う(41歳)。以後、数度にわたり同誌に記事執筆や座談会参加。このころより、アラハバキ神の研究に没頭する。1977年、『津軽夷神異文抄』出版。『日本読書新聞』に「異神巡脚記」を連載。
1978年、東京大学仏教青年会所属「古代信仰研究所」を創設する(43歳)。以後、晩年までここの所長として活動。1979年より、雑誌『迷宮』に「琉球古字と十二干の謎」を三回連載。1992年、東大仏青会の機関誌『仏教文化』29号に、「わが国に於ける阿羅邏仙人信仰について」を発表。1994年、古信研の教室を清瀬市の自宅に移転(59歳)。
2012年、雑誌『Fukujin』16号で「竹内健特集」が組まれ、インタビューを受ける(77歳)。古代信仰史学について語り、競馬や血尿についての狂歌などを発表する。2015年、死去(80歳)。肝臓癌だったが治療を拒否していた[15]。
エピソード
[編集]- 声優の増岡弘(『サザエさん』のマスオ役)は表現座の俳優だった。「天井桟敷」の旗上げ公演でも客演した[16][17]。
- 声優の井上真樹夫(『ルパン三世』の五ェ門役)は表現座創立者の一人。「ワクワク学説」で主役を演じた[18]。
- 舞踏家の麿赤児は、竹内健を「風月堂の主のような男」だったと言い、唐十郎と出会ったときのキーマンだったと言っている[19]。
- 唐十郎と出会ったころ、竹内は「新宿風月堂の階段横に毎日うずくまって昼寝していた」。状況劇場第三回公演『煉夢術』のパンフレットに「アルトー論」を寄稿している[20]。
- 舞踏家の笠井叡は、韻文劇「青光記」で「若い男」を演じた[21]。
著書
[編集]- 『竹内健戯曲集』思潮社、1968年[22]。
- ワクワク学説 / 埋葬伝説 / 青光記 / 黒い塔 / 般若由来記(馬場あき子原作・竹内健潤色) / 竹内健論 虚空消滅のイロニー(笠原伸夫) / あとがきに代えて 消滅の美学への頌歌(竹内健) /
- 『竹内健怪奇幻想シリーズ』、新書館(For Ladies シリーズ)
- 『世界でいちばん残酷な話:薔薇の天使』、1967年/新装版、1969年
- 『世界でいちばんコワイ話:薔薇の悪魔』、1968年
- 『世界でいちばん奇妙な話:薔薇の半神』、1969年
- 『世界でいちばん孤独な話:薔薇の埋葬』、1970年
- 『ランボーの沈黙』、紀伊国屋新書、1970年/復刻版、1994年
- 『図解ポーカー入門』、有紀書房、1971年
- 『邪神記』、現代思潮社、1976年。
- 『津軽夷神異文抄:竹内健史劇集』、絃映社(発売 三樹書房)、1977年。
翻訳
[編集]- アルフレッド・ジャリ『ユビュ王』現代思潮社、1965年。
- ジャン・コレ『ゴダール』三一書房、1969年。
雑誌監修
[編集]- 『パイディア』12号(特集・日本的狂気の系譜)、竹内書店、1972年。
新聞連載
[編集]- 「異神巡脚記:アラハバキ神と津軽伝承」(全12回)、『日本読書新聞』1909-1920号、1977年。
雑誌記事など
[編集]演劇関連
[編集]- 「泣くな、天使ミカエルよ! 擬ビュトール調不在論」(『映画芸術』1962年12月号)
- 「拝啓イヨネスコ様」(『記録映画』1964年1月号)
- 「各劇団の主張・表現座」(『新劇』1964年9月号)
- 「反演劇試論(全三回)」(『日本読書新聞』1964年9月21日、9月28日、10月12日)
- 「アントナン・アルトーまたはカッコ悪さの美学」(『状況劇場第三回公演・煉夢術』パンフレット、1965年2月)
- 「複合空間論序説:創造における虚構性の回復について」(『三彩』1965年6月号)
- 「(翻訳)アルトー「血沫」(附「アルトー小論」)」(『演劇空間』、1965年11月)
- 「失格した劇作家」(『現代詩手帖』1967年8月号) ※アルトー論
- 「座談会・本質論的前衛演劇論(竹内健・寺山修司・唐十郎・高橋睦郎)」(『三田文学』1967年11月号)
偽史関連
[編集]- 「有在は有罪か:日本文化発祥異説」(『記録映画』1963年4月号)
- 「故郷とは何か:寺山修司論」(『現代詩手帖』1965年9月号)
- 「日本文化発祥異説:我々にとって故郷とは何か?」(『三田文学』1967年4月号)
- 「異説起源論者の系譜」(『SD スペースデザイン』1972年2月号)
- 「日本的狂気の渕源を探る:起源論異説とその資料」(『季刊パイディア』12号、1972年)
- 「座談会・日本的狂気の世界を語る(竹内健、宮澤正典、有賀龍太)」(『地球ロマン復刊1号:偽史倭人伝』1976年)
神代文字関連
[編集]- 「神代文字幻想」(『季刊フィルム』6号、フィルムアート社、1970年1月)
- 「神字(かむな)考:篤胤と『毒』の要請」(『季刊パイディア』12号、1972年)
- 「あら閻浮むなしや…:南方限界とは何か?」(『芸術俱楽部』1973年10月号、フィルムアート社)
- 「阿伎留神社神字歌考」(『地球ロマン復刊5号:神字学大全』1977年5月)
- 「座談会・神代文字をめぐる諸問題(竹内健、筑糸正嗣、有賀龍太)」(『地球ロマン』復刊5号、1977年)
- 「阿比留字本源考 琉球古字と十二干の謎」(『迷宮』1-3号、1979-1980年)
神道史関連
[編集]- 「奉納・悪神香香背男考:天津赤星とスバル」(『地球ロマン』復刊2号、1976年)
- 「東日流荒吐伝承の謎」(『地球ロマン』復刊6号、1977年)[23]
- 「武蔵国アラハバキ神祠の諸問題」(『北奥文化』5-7号、1984-86年、北奥文化研究会)
- 「わが国に於ける阿羅邏仙人信仰について」(『仏教文化』29号、1992年)
脚注
[編集]- ^ 「南方憧憬論」(『邪神記』p.29)。
- ^ 『表現座新聞』第2号、1967年。
- ^ 石川三四郎、荘司憲季など
- ^ 『邪神記』あとがき。
- ^ DVD「寺山修司の実験映像ワールド」Vol.1に収録。
- ^ 『Fukujin』16号、p.87
- ^ 「この忌々しき四物目」(『短歌』1972年11月号、p.71)
- ^ 『Fukujin』16号、p.97
- ^ 「内田栄一の『ゴキブリの作りかた』や「状況劇場」の劇中歌などは『ユビュ王』の影響なくしては在り得なかった」(上杉清文、『Fukujin』16号「編集後記」)。
- ^ 『日本読書新聞』昭和40年5月3日(1306号)「こういう冒険的な翻訳にあえて手を染めるのは若い訳者の特権でもあろう」
- ^ 「異説起源論者の系譜」(『SD スペースデザイン』 No.89、1972年2月)
- ^ 1974年に第6刷発行。
- ^ 「賭博論」(『黒の手帖』1972年2月号)、「賭博の形而上学」(『芸術生活』1972年10月号)
- ^ 『地球ロマン』復刊1号、p107。『地球ロマン』復刊2号、読者欄。
- ^ “不二本 蒼生ブログ AOI FUJIMOTO”. 2021年3月27日閲覧。
- ^ 岡和田晃「山野浩一とその時代(14)」
- ^ ウキペディア項目「増岡弘」 人物・エピソードの節、2021年5月3日閲覧。
- ^ “nijimaq|プロフィール|マイソング・クリエイト”. 2021年5月3日閲覧。
- ^ “麿赤兒インタビュー vol.1「舞踏まで―新宿が大学だった」2012/12/17(動画)”. 2021年5月3日閲覧。
- ^ 「状況劇場年譜」(『同時代演劇』1973年6月号、p153)。
- ^ 「この忌々しき四物目」(『短歌』1972年11月号、p.71)
- ^ “国会図書館デジタルコレクション「竹内健戯曲集」”. 2021年5月3日閲覧。
- ^ 『日本読書新聞』連載記事より一部転載したもの。
参考文献
[編集]- 『Fukujin』16号(特集 竹内 健―ユビュ王から古代信仰まで―)、福神研究所、白夜書房、2012年。(年譜など) https://web.archive.org/web/20121015111040/http://www.byakuya-shobo.co.jp/page.php?id=3546&gname=shoseki_livingculture
- 『迷宮』第1号、白馬書房、1979年。(著者紹介等)
- 絓秀実『1968年』、ちくま新書、2006年。(p.196-197、p.200-201)
- 四方田犬彦『歳月の鉛』、工作舎、2009年、p220
- 長山靖生『偽史冒険世界』、ちくま文庫、2001年。(p201-204)
- 岡和田晃「山野浩一とその時代(14) 企業のPR映画と、劇団表現座への参画」、『目と眼差しのオブセッション』(トーキングヘッズ叢書 No.85)、アトリエサード、2021/1/28。
- 九條今日子『ムッシュウ・寺山修司』ちくま文庫、1993年。(p.166)
- 寺山修司「竹内健にまつわる数学」(表現座公演『アメデーまたは死体処理法』パンフレット)1963年。
- 瓜生良介『小劇場運動全史 記録・発見の会』造形社、1983年。(p85-86, p96)
- 藤原明『偽書「東日流外三郡誌」の亡霊:荒吐の呪縛』、2019年、河出書房新社。(p45-46)
- 吾郷清彦『超古代神字・太占総覧』新人物往来社、1979年。(第24章アキルモジ発掘)
- 坂原眞里「日本におけるアルトーの受容:演劇論を中心に」、京都大学フランス語学フランス文学研究会、1992年。
- 中川登美子「劇的複合空間の実践:竹内健による演劇活動をめぐって」、『演劇学論叢』16号、大阪大学大学院文学研究科演劇学研究室、2017年。