竹内正策
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竹内 正策 たけうち/たけのうち せいさく | |
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生誕 |
1851年6月4日 土佐国、土佐藩 |
死没 |
1922年5月3日(70歳没) 大日本帝国、静岡県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1871年 - 1914年 |
最終階級 | 中将 |
竹内 正策(たけうち/たけのうち せいさく、嘉永4年5月5日(1851年6月4日) - 1922年(大正11年)5月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
履歴
[編集]高知城下で生まれ、1871年(明治4年)[西暦年要検証]、御親兵として上京し、1875年(明治8年)陸軍少尉任官。西南戦争に出征。
歩兵少佐であった1892年(明治25年)11月、陸軍省軍務局第2軍事課長に就任。1894年(明治27年)9月、第1軍兵站参謀長に発令され日清戦争に出征。1895年(明治28年)3月18日、歩兵大佐に昇進し軍務局第1軍事課長となる。1896年(明治29年)11月から1898年(明治31年)3月まで東宮武官を務め、同月、歩兵第34連隊長に着任。1900年(明治33年)4月25日、陸軍少将に進級し歩兵第12旅団長となる。1903年(明治36年)4月、台湾守備混成第1旅団長に就任したが、同年7月に休職。
1904年(明治37年)6月、後備歩兵第4旅団長として復帰し日露戦争に出征。第3軍隷下として旅順攻囲戦で武功をあげた。その後、遼東守備軍に編入された。1905年(明治38年)3月、歩兵第25旅団長に転じ、同年10月に休職。1906年(明治39年)1月、待命となり、1907年(明治40年)2月28日、陸軍中将へ昇進と同時に予備役編入となった[1]。1909年4月1日に後備役となる[2]。1914年(大正3年)4月1日に退役し[3]静岡で隠匿生活をする。1922年(大正11年)5月、結核が発病し再起不能にいたり自ら自決して果てた。
年譜
[編集]- 1875年(明治8年)1月27日 - 少尉
- 1878年(明治11年)12月6日 - 中尉
- 1882年(明治15年)4月18日 - 大尉
- 1887年(明治20年)4月27日 - 少佐
- 1887年(明治20年)
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)2月1日 - 参謀本部御用掛兼[4]
- 1895年(明治28年)3月18日 - 大佐
- 1900年(明治33年)4月25日 - 少将
- 1907年(明治40年)2月28日 - 中将、予備役
- 1909年4月1日 - 後備役
- 1914年(大正3年)4月1日 - 退役
栄典
[編集]- 1895年(明治28年)10月18日 - 功四級金鵄勲章、双光旭日章[5]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[6]
- 勲三等瑞宝章
- 1907年(明治40年)4月20日 – 従四位[7]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第7100号、明治40年3月4日。
- ^ 『官報』第7755号、明治42年5月5日。
- ^ 『官報』第507号、大正3年4月10日。
- ^ 『官報』第2880号、明治26年2月7日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7140号「叙任及辞令」1907年4月22日。
参考資料
[編集]- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(明治36年7月1日調)15コマに記載。
- 『陸軍予備役後備役将校同相当官服役停年名簿』(明治44年7月1日調査)426コマに記載。