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竹原友三郎 (2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年明治24年〉4月4日 - 1973年昭和48年〉6月4日)は、大正から昭和にかけての日本実業家である。大阪証券会社竹原証券の社長や関西土地社長、不動化学工業(現・フドー化学)社長などを務めた。友三郎の名は養父・初代友三郎から継いだもので、襲名前は竹原 義一を名乗った。

経歴

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2代竹原友三郎は、1891年(明治24年)4月4日[1]、太田聿郎の長男として生まれた[2]。出身地は大阪府高槻市[1]、初名は義一[2]。のちに伯父にあたる大阪市両替商株式仲買業を営む初代竹原友三郎養子となる[2]。また岸和田の富豪寺田甚与茂の次女・秀(1894年生)を妻とした[2]。学業は1913年(大正2年)に大阪高等商業学校を卒業した[1]

1918年(大正7年)9月、初代友三郎が死去する[3]。養父の死去に伴い竹原義一は襲名(2代竹原友三郎)の上、養父が営んできた竹原商店を継いだ[4]。翌1919年(大正8年)2月、証券会社の株式会社竹原商店を設立し、その代表取締役に就いた[5]。同社は竹原家の個人商店を会社組織に改めたもので、設立直後の戦後恐慌期にも堅実経営で事業を拡大し特に起債市場で有力な証券会社となっていく[6]1928年(昭和3年)6月には社名を竹原証券株式会社と改めた[6]。また竹原商店のほかの主な事業に関西土地(旧・帝国信託)があった[7]。竹原は帝国信託時代の1920年(大正9年)12月代表取締役に就任[8]。同社は群小土地会社を次々と合併し、大阪市内外に広大な土地を持つ土地会社へと発展した[7]

上記竹原商店・関西土地以外にも多数の会社役員を兼ねた。その一つ大阪の日本舎密肥料(後の日本化学肥料)では1919年7月取締役に就任し[9]1922年(大正11年)より矢野慶太郎の後任として社長を務めた[10]。翌1923年(大正12年)5月に日本化学肥料が同業の大日本人造肥料(現・日産化学)に吸収されると大日本人造肥料の取締役へと移り、以後1932年(昭和7年)1月まで在職した[11]。日本舎密肥料に続いて1919年12月名古屋市の電力会社名古屋電灯の取締役に就任[12]。後身の大手電力東邦電力でも引き続き取締役に選ばれ[13]、1932年1月まで務めた[14]。電力会社では同じく大手の日本電力でも1926年(大正15年)10月から1931年(昭和6年)12月にかけて取締役を務めている[15]

1940年(昭和15年)8月、社長を務める関西不動産(旧・関西土地)は不動産部門を切り離して土木建築請負業を主とする不動建築株式会社へと転換される[16]。翌1941年(昭和16年)4月には竹原証券廃業に伴い戸口千尋ら従業員・関係者によりその営業を引き継ぐ形で山大証券が設立された[17]。証券業界から退いた竹原は関西の工業界へと活動の中心を移し[18]太平洋戦争後にかけて不動建築社長や不動化学工業・不動工業・日本木管の社長を兼ねた[1][18]。このうち不動化学工業(現・フドー化学)は1935年(昭和10年)に田中塗料工業として設立された会社で[19]フェノール樹脂尿素樹脂などプラスチックのメーカーとして発展する[20]。ただし同社では1957年(昭和32年)に原材料の供給元であった日本瓦斯化学工業(現・三菱ガス化学)が資本参加したため榎本隆一郎が社長となっている[20]

1973年(昭和48年)6月4日に死去した[21]。82歳没。

脚注

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  1. ^ a b c d 人事興信所 編『人事興信録』第16版下、1951年、た82-83頁。NDLJP:2997929/70
  2. ^ a b c d 人事興信録 編『人事興信録』第5版、人事興信所、1918年、た143-144頁。NDLJP:1704046/637
  3. ^ 「竹原友三郎氏逝去」『東京朝日新聞』1918年9月20日朝刊5頁
  4. ^ 「竹原商店竹原友三郎襲名・家督相続謹告」『東京朝日新聞』1918年10月1日7頁(広告)
  5. ^ 商業登記 株式会社設立」『官報』第2032号附録、1919年5月15日
  6. ^ a b 野依秀一 編『明治大正史』第十巻(会社篇)、実業之世界社明治大正史刊行会、1929年、197頁。NDLJP:3432666/133
  7. ^ a b 『大阪財界人物史』、国勢協会、1925年、240-242頁。NDLJP:1020893/184
  8. ^ 商業登記 帝国信託株式会社」『官報』第2631号附録、1921年5月11日
  9. ^ 商業登記 日本舎密製造株式会社」『官報』第2148号附録、1919年10月1日
  10. ^ 工業会社商店彙報 日本化肥社長」『工業之大日本』第19巻第7号、工業之大日本社、1922年7月、71頁
  11. ^ 『大日本人造肥料株式会社五十年史』、大日本人造肥料、1936年、101-110・129頁
  12. ^ 商業登記 名古屋電灯株式会社変更」『官報』第2308号附録、1920年4月15日
  13. ^ 東邦電力史編纂委員会 編『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年、108-109頁
  14. ^ 商業登記 東邦電力株式会社変更」『官報』第1598号、1932年5月2日
  15. ^ 日本電力 編『日本電力株式会社十年史』、日本電力、1933年、103頁
    商業登記 日本電力株式会社変更」『官報』第1539号、1932年2月19日
  16. ^ 証券引受会社協会 編『株式会社年鑑』昭和17年版、証券引受会社協会、1942年、1207-1208頁。NDLJP:1139279/649
  17. ^ 日本証券投資協会 編『全国証券会社要覧』1956年版、日本証券投資協会、1956年、108頁。NDLJP:2474095/63
  18. ^ a b 高田甚一 編『現代工業人大銘鑑』、日刊工業新聞社出版部、1941年、473頁。NDLJP:1705060/260
  19. ^ 証券引受会社協会 編『株式会社年鑑』昭和17年版、863頁。NDLJP:1139279/464
  20. ^ a b 『日本瓦斯化学工業株式会社創立十五年史』、日本瓦斯化学工業、1966年、252-256頁。NDLJP:2515123/130
  21. ^ 人事興信所 編『人事興信録』第27版下巻、人事興信所、1973年、巻末哀悼録9頁