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竹葉亭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
株式会社竹葉亭
竹葉亭外観(中央の白いビル)
(2017年9月19日撮影)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
104-0061
東京都中央区銀座8丁目19番3号銀座竹葉亭ビル10階
本店所在地 104-0061
東京都中央区銀座8丁目14番7号
設立 1924年大正14年)11月[1]
業種 小売業
法人番号 9010001050514
事業内容 鰻料理
代表者 別府晋(代表取締役社長)
従業員数 150名[1]
外部リンク https://g201100.gorp.jp
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株式会社東京竹葉亭
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
530-0005
大阪府大阪市北区中之島4丁目3番20-1702号
業種 小売業
法人番号 4120001121928
事業内容 鰻料理
外部リンク http://www.chikuyotei.com
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株式会社大阪竹葉亭
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
530-0002
大阪府大阪市曽根崎新地1丁目1番43号
業種 小売業
法人番号 7120001072573
事業内容 鰻料理
外部リンク https://osaka-chikuyoutei.simdif.com
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竹葉亭(ちくようてい)は幕末江戸で創業した老舗料理店。現在の本店は銀座にあり、関西方面にものれん分け店が存在する。現在は本家株式会社竹葉亭が経営する3店のほか、名古屋阪神に株式会社東京竹葉亭の5店、大阪に株式会社大阪竹葉亭の4店が存在する。

歴史

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創業

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嘉永年間、江戸大富町浅蜊河岸(東京都中央区新富一丁目1番)において、同所の剣術道場士学館に通う武士の刀を預かる留守居茶屋として、初代別府金七により創業された[2]慶応2年(1866年)、竹葉亭と号する[3]。酒の女房詞「ささ」に由来する酒の雅称「竹葉」に由来するもので、初代店主の号としても使用された[3]明治5年(1871年)「東京高名三幅対」に「蒲焼・京橋・竹葉亭」とあり、これ以前に蒲焼専門店となっていることがわかる。

鰻の竹葉亭」 竹葉亭は慶応2年(1866)、浅蜊河岸(現在の新富町)で、桃井春蔵道場門下生の「刀預り所」を役目とした留守居茶屋として、初代別府金七が創業。二代目金七が、鰻屋を目指し販路を拡大、新富座、歌舞伎座などへ弁当を納入し、名店としての地位を確立していった。二代目金七は書画骨董の見識があり、座敷の調度品は琳派の名品など高雅を極めた。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「鰻の竹葉亭」より抜粋[4]

明治時代

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明治初年、販路拡大のため、新富座に弁当を納める事業を始めると、これが成功し、次いで歌舞伎座帝国劇場等にも仕出しを行った。また、店主の客に媚びない人柄が評判で、旧大名毛利家黒田家にも贔屓にされた[5]。明治28年(1895年)11月3日、尾張町新地地蔵横町に「鰻鰌洋食食器盛」の支店を開いた[6]、西洋風のテーブル席に「ソップどぜう、鰻飯」の3種類を供する近代的なものだった[7]

震災後

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大正12年(1923年)関東大震災で浅蜊河岸の本店は焼失し、直後に京都から宮大工を呼んで木造2階建店舗を新築するも、震災復興再開発事業により土地が収公され、翌年現在地の木挽町八丁目に移転した[8]

大正15年(1926年)丸ノ内ビルヂング1階北側角にスタンドバー付きの和食店を出店した[8]。その後も多店舗展開を進め、昭和初期には以下の東京14軒、大阪10軒の支店が存在した[9]

東京
大阪

他4軒

多くは岸田劉生は昭和初年の状況を、「竹葉は、有名だが、この頃は食堂風になってしまって、電車道を越した向横町にも出来た。この節は万事御手軽が流行だが、この御手軽という事は何も今はじまった事ではなく、徳川の中期以前から流行したものである。(中略)その他まぐろさしみのぶつ切りや、茶めしの流行など、この御手軽というものはいつもかわらぬ流行で、またこの御手軽主義から、中々御手重料理にはないうまいものが発明されて行く。」と書いている[10]

また、この頃高浜虚子は丸ビルに事務所を構え、丸ビル店にも通っており、当時の状況を伺うことができる。なお、震災後、丸ビルの食堂では群衆が殺到し、日本初の食券制が導入されていた[11]

十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。

誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る
ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも

率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。(中略)六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。(中略)鰻丼が出来て来た。薄紅梅が一輪散った。

戦中、戦後混乱期

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戦時中は、米不足のため、芋飯や饂飩に鰻を添えて供した[12]。昭和19年(1944年)3月5日、本店は奢侈享楽面に対する非常措置実施要綱に基づき休業を余儀なくされた[13]。本店店舗は大蔵省関係の寄宿舎として利用され、一家は茨城県那珂郡瓜連町に疎開した[14]。昭和20年(1945年)の東京大空襲では木挽町本店、京橋店、丸ビル店、中之島店が被害を免れたが、他の支店は全滅し、以降再開されなかった[15]

終戦直後も米統制は続いたため、海草麺、サッカリン入り汁粉などを供し、ごく一部の常連客にのみ闇市の米を用いた鰻弁当を配り、官憲に見咎められると、客持参の米に鰻を載せただけだと弁解して言い逃れた[14]。昭和24年(1949年)、飲食営業臨時規整法により許可を受け、通常営業を再開した[14]

戦後

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4店での営業再開ではあったが、間もなく戦前と同様支店の増設に乗り出し、関東では横浜そごう船橋そごう多摩そごう等の百貨店に出店、大阪では市内各地の商業ビルやホテルに支店を設けたほか、西宮市に進出、名古屋観光ホテルにも和食堂呉竹を開店した。海外にも目を向け、クアラルンプールシンガポールのホテルに出店した。

平成2年(1990年)、出江寛の設計になる大阪リーガロイヤルホテル店は第16回吉田五十八賞、商環境デザイン賞大賞、第6回日本建築士会連合会特別賞、第1回日本建築家協会近畿支部関西建築家大賞受賞。

平成20年(2008年)東京を対象に初のミシュランガイドが発売されると、鰻店唯一の星(一つ星)を獲得、その後京阪神版では西宮店も星を獲得している。

現行の店舗

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竹葉亭
西宮店の鰻丼
東京竹葉亭
大阪竹葉亭

このほか、過去には大阪中之島に本店を置く中之島竹葉亭が存在した。

歴代当主

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  1. 別府金七 - 三河国出身[2]
  2. 別府金七(1860年 - 1934年) - 警視庁道場で宮内省侍従時代の山岡鉄舟剣道を学ぶ[8]茶の湯を嗜み、琳派の画を蒐集、吉川霊華と交流した[8]
  3. 別府哲二郎(1889年 - 1971年) - 二代目金七の長男。岡麓に書道を学ぶ[16]
  4. 別府信雄(1902年6月 - 1979年) - 旧姓荻原、哲二郎の弟得三の泰明小学校同級生で[15]東京大学卒業後、東洋大学ドイツ語教員を経て、哲二郎の一人娘道子と結婚、別府家を継いだ[17]。趣味は椿の栽培で、松尾芭蕉良寛に関する書を愛読し、将棋は二段の実力があった[18]
  5. 別府得三(1902年9月 - 1992年9月) - 哲二郎の弟で、信雄死去後、長男克己が継ぐまで中継ぎを務めた[19]
  6. 別府克己 (1939年1月 - )信雄の長男として芝区桜川町に生まれ、茨城県瓜連町に疎開後、世田谷区駒沢別荘で育った[18]慶應義塾大学商学部卒業後、竹葉亭に入社、昭和58年(1983年)当主[19]。妻は駒形どぜう五代目渡辺繁三長女淳子[20]
  7. 別府允(1945年 - 2014年) - 克己の弟で、慶應義塾大学法学部卒業後、日本オリベッティに就職、昭和49年(1974年)竹葉亭入社、京橋支店責任者等を務め[21]、平成15年(2003年)当主[1]
  8. 別府晋(1969年6月2日 - )- 克己の長男。中央大学商学部会計学科卒業後、中之島竹葉亭本店で約3年間修行、東京に戻り竹葉亭本社事務所にて約1年間経理を担当し、平成10年(1998年)より銀座店で調理担当、責任者[22]。2013年より社長。

墓所は港区三田魚籃寺

有名人の逸話

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  • 寺田寅彦は、明治28年(1895年)夏、尾張町の竹葉亭の隣家[注釈 1]の2階を一ヶ月間間借りした。2階や便所の窓からは鰻を焼く団扇の羽ばたきが見え、音や匂いもわかったという[23]
  • 北大路魯山人は『鰻の話』昭和10年(1935年)において鰻屋一流店として小満津竹葉亭、大黒屋を挙げ、中でも竹葉の主人は絵画に目が利くので「美を知るものは、たとえ商売が何屋であっても、どこかそれだけちがうものがある。」と評している。勘定をしないで帰り、鰻代の代わりにロ印の器が届いたこともあった[24]
  • 斎藤茂吉は鰻好きで知られているが、特に道玄坂の花菱と木挽町の竹葉亭を贔屓にしていた。昭和18年(1943年)、息子斎藤茂太の見合いが竹葉亭で行われた際、婚約者が緊張のため残した鰻を茂吉が食べた[25]
  • 池田彌三郎は竹葉亭で出征前に見合いを行い、婚約者に丼の中身がかかってしまう椿事があったが、見合いは無事に成立した[25]

文学における竹葉亭

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新富町

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「ハハハハそうなっちゃあ敵わない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京の鰻でも食っちゃあ。竹葉でも奢りましょう。これから電車で行くとすぐです」「鰻も結構だが、今日はこれからすい原へ行く約束があるから、わしはこれで御免を蒙むろう」

話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説(うわさ)とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢に連れて蹌踉(よろよろ)起きて出て、自慢の番茶の焙加減で、三人睦くお取膳。お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛を持って、颯(さっ)とお化粧つくりを直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭いて一歯入れる。

丸ビル

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「あのね、いま、私、丸ビルまで来ていますの、下の竹葉で御飯を食べたとこなんですけど、ねえ、あの、一寸、お会ひ出来ませんでしょうか?」(中略)受話機を戻して、上着をひっかけると、津田は隣席の桜井に一寸頼んで、くみ子の待っている地階の竹葉へ降りて行ってみた。(中略)津田が竹葉へはいって行くと、窓ぎわのボックスにくみ子がにこにこ笑っていた。細かな花模樣の青い着物に、白博多の帯が清楚にぱつとまばゆかつた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 寺田の随筆「銀座アルプス」には「Iの家」とある。洋服・洋物商であった井上商店である。井上紅梅(井上商店の養子。のち中国文化研究者)参照。

出典

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  1. ^ a b c 江戸ののれんに学ぶ事業承継と人づくり 第十一回竹葉亭別府充社長
  2. ^ a b 樋口(1999) p.37
  3. ^ a b 樋口(1999) p.38
  4. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「鰻の竹葉亭」国立国会図書館蔵書、2018年2月8日閲覧
  5. ^ 樋口(1999) p.39
  6. ^ 朝日新聞 1985年11月2日
  7. ^ 朝日新聞 1895年11月7日3面
  8. ^ a b c d 樋口(1999) p.40
  9. ^ 樋口(1999) p.42-43
  10. ^ 『新古細句銀座通』昭和2年(1927年)
  11. ^ 『丸の内』昭和2年(1927年)
  12. ^ 永井荷風断腸亭日乗』昭和16年(1941年)1月15日条、4月13日条
  13. ^ 朝日新聞1944年3月4日
  14. ^ a b c 樋口(1999) p.45
  15. ^ a b 樋口(1999) p.43
  16. ^ 樋口(1999) p.49
  17. ^ 樋口(1999) p.44
  18. ^ a b 樋口(1999) p.46
  19. ^ a b 樋口(1999) p.47
  20. ^ 樋口(1999) p.48
  21. ^ 樋口(1999) p.47
  22. ^ 東京中央ネット「若き素顔 第二弾若き料理人
  23. ^ 銀座アルプス』昭和24年(1949年)
  24. ^ 妹尾河童「東京・銀座 竹葉亭」『太陽』33巻12号、平凡社、1995年11月 p.84
  25. ^ a b 樋口(1999) p.57

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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