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第三次印パ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第三次印パ戦争

左上から時計回りにバングラデシュの戦没者を祀る顕彰碑、インド側が使用したQF 3.7インチ山岳榴弾砲、インド軍に降伏するパキスタン軍の司令官、パキスタン海軍の潜水艦ガーズィー
戦争印パ戦争[1]バングラデシュ独立戦争[2]
年月日1971年12月3日 - 同年12月17日[3]
場所東パキスタン(現在のバングラデシュ)、カシミール地方[3]
結果:インド側の勝利、パキスタン側の無条件降伏。バングラデシュは独立を達成[3]
交戦勢力
インドの旗 インド
バングラデシュ臨時政府
援助国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
イスラエルの旗 イスラエル
パキスタンの旗 パキスタン
援助国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ
中華人民共和国の旗 中国
イランの旗 イラン
指導者・指揮官
インドの旗 インディラ・ガンディー
インドの旗 スワラン・シン英語版
インドの旗 サム・マネクショー英語版
インドの旗 ジャグジット・シン・オーロラ英語版
インドの旗 ゴパル・グルナス・ビウール英語版
インドの旗 サガット・シン英語版
インドの旗 ジャック・ファルジ・ラファエル・ジェイコブ英語版
インドの旗 サルダリラル・マスラダス・ナンダ英語版
インドの旗 ソウレンドラ・ナス・コーリ英語版
インドの旗 ニーラカンタ・クリシュナン英語版
インドの旗 プラタープ・チャンドラ・ラル英語版
インドの旗 ハリ・チャンド・デュワン英語版
ムジブル・ラフマン
ムハンマド・アタウル・ガニ・オスマニ英語版
パキスタンの旗 ヤヒヤ・カーン英語版
パキスタンの旗 アミール・アブドラ・カーン・ニアジ英語版
パキスタンの旗 アブドゥル・アリー・マリク英語版
パキスタンの旗 ティッカ・カーン英語版
パキスタンの旗 イフティカル・カーン・ジャンジュア英語版
パキスタンの旗 ムザファル・ハッサン英語版
パキスタンの旗 ラシッド・アハメド英語版
パキスタンの旗 モハンマド・シャリフ英語版
パキスタンの旗 ムジーブ・アハマド・カーン・ロディ英語版
パキスタンの旗 レスリー・ムンゲヴィン英語版
パキスタンの旗 アブドゥル・ラヒム・カーン英語版
パキスタンの旗 イナムル・ハク・カーン英語版
パキスタンの旗 ズルフィカール・アリー・カーン英語版
パキスタンの旗 アブドゥル・モタレブ・マリク英語版
戦力
250,000人
200,000人[4]
34,000人~92,000人[4]
損害
東部戦線1,047人戦死
4,183人負傷
西部戦線1,426人戦死
7,186人負傷
西部戦線616人捕虜
装甲車73輌破壊
作戦機45機撃墜
フリゲート艦1隻撃沈[5]
東部戦線1,293人戦死
4,225人負傷
西部戦線1,405人戦死
4,958人負傷
東部戦線9,300人以上捕虜
西部戦線540人捕虜
作戦機50機撃墜
フリゲート1隻撃沈
潜水艦1隻撃沈
掃海艇1隻撃沈
武装商船3隻撃沈[5]
冷戦

第三次印パ戦争(だいさんじいんぱせんそう、ヒンディー語: १९७१ का भारत-पाक युद्धウルドゥー語: پاک بھارت جنگ 1971ء‎、ベンガル語: ভারত–পাকিস্তান যুদ্ধ ১৯৭১)は、1971年12月3日から同年12月17日にかけて勃発したインドパキスタンの国家間の戦争である。同年3月にパキスタン内部で東パキスタン独立戦争が勃発し、同地域から多くの難民がインドへ避難していった事で印巴両国の対立が激化し緊張が高まった。また同年8月にインドがソビエト連邦(ソ連)と軍事同盟である印ソ平和友好協力条約を締結した事も対立の激化につながり、インドは対パキスタン強硬政策を採った。そして同年11月21日にはインド軍が東パキスタン西部の街ジョソール付近に展開。11月23日にパキスタンは全土に非常事態宣言を発出し、12月3日にはインドも非常事態宣言を出して国家総動員体制に移行。両国は全面戦争に突入した。東パキスタンでは開戦1日目でインド空軍制空権を奪取し、地上ではインド軍25万人が国境を越えて東パキスタンに侵攻。同地域の主都ダッカに迫った。そして12月16日、同地域に駐留していたパキスタン軍無条件降伏し、西部のカシミール地域でも12月17日午後8時にインド側が一方的に停戦を宣言し、パキスタン側がそれに応じた事で、この戦争は終結した。なお戦時中にインドはパキスタンからの独立英語版を宣言したバングラデシュ承認し、インド側の勝利によって同国は独立を果たした。そして戦後にはインドは南アジアで軍事的に不動の地位を確保するに至った。その後、1972年7月にはインドのシムラーインドの首相インディラ・ガンディーパキスタンの首相ズルフィカール・アリー・ブットーシムラー協定を締結し、戦後処理を行った[3]

概要

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印巴両軍とバングラデシュ独立軍の配置図

第三次印巴戦争が勃発した当時、パキスタンはインドをはさんだ東パキスタンと西パキスタンで構成される飛地国家であった。そして、この戦争は東パキスタンが西パキスタンから独立する事で終結した。その事からこの戦争はバングラデシュ独立戦争とも呼ばれる。インドの支援を受けた東パキスタンは有利に戦争を展開し、情勢は東パキスタンが圧倒的に有利となった[2]

しかし当時最大の問題はインドが全勢力を西部のカシミール地区に移動させ、西パキスタン、特に同地域のパキスタン側であるアザド・カシミールに侵攻するか否かであった。アメリカ合衆国(アメリカ)の元国務長官ヘンリー・キッシンジャーによれば、ガンディーはアザド・カシミール南部を制圧して同地に駐留するパキスタン軍を一掃することを考えていると見られたため、アメリカは第7艦隊ベンガル湾に派遣してインドの西パキスタン攻撃を阻止しようとしたという[2]

上記の説に関して、確かに当時のインド国内には戦争終決前にパキスタンをさらに攻撃して見せしめにすべきだとの雰囲気があったが、ガンディー自身は12月16日に東パキスタンのパキスタン軍が無条件降伏した時点で世界世論への配慮から西部戦線でも停戦を決意していたとも言われる。ガンディーと親交のあったラージ・タパールは、自身の回想録において「…インディラは、東部戦線における降伏後、直ちに停戦を命じる常識を持っていた…」と記しているが、それはややインド側に偏向した見解であるとされている[2]

一方で、1971年4月以降インド非難を繰り返してきた中華人民共和国(中国)は、この戦争はインドのパキスタンに対する侵略行為であるとして激しく非難し、バングラデシュはかつての満洲国の様な傀儡政権であると明言するなどパキスタン支持の姿勢を明らかにしていた。当時、インド政府は中国が中印国境においてインドへ牽制の行動に出た中印国境紛争の経験もあり、中国に対する警戒を強めたとされる。しかしガンディーは閣僚に対し、中国が剣をがちゃつかせるならばソ連がしかるべき対抗措置を取ってくれることを約束していたと述べたと言われる[2]

この戦争はパキスタン側の降伏をもって終結した。インド政府は16日、東パキスタンにおけるパキスタン軍の無条件降伏を受けて、西パキスタンでも翌日の午前8時を期して一方的に停戦すると発表した。これに対してパキスタンの大統領ヤヒヤー・ハーンは17日午後3時にパキスタン放送を通じて午後7時半から西部戦線の戦闘中止命令を出した。これが、2週間にわたる第三次印巴戦争の結末であった[2]

カシミール紛争

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印巴戦争とは本来、カシミールをめぐる戦争である。そのためこの第三次印巴戦争は「バングラデシュ独立戦争」とも別称されるものの、戦争を終結させた「シムラー協定」で最大の争点はカシミール問題であった。印巴両国間ではその後の1999年にもミニ印パ戦争や第4次印パ戦争とも称される紛争が発生している。その軍事衝突の舞台となったカールギルは両国の管理ライン上にある。今後も印巴戦争が勃発するとすれば、それはカシミールをめぐって発生し、その終結にはカシミール問題の取り扱いが大きな焦点となると考えられる[2]

開戦までの情勢

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1970年12月、パキスタンでは総選挙が行われ、アワミ連盟は軍事・外交のみを中央政府が管轄し、その他は地方政府の管轄とするべきであるとの東パキスタンの自治権の拡大を主張して大勝し、第1党となった。これに対し、強力な中央政府の維持を主張する軍部および第2党となったパキスタン人民党はそれに反対し、最終的にはヤヒヤー・ハーンが自らダッカに赴きアワミ連盟の総裁ムジブル・ラフマンと会談した。この間、長年にわたる西パキスタンにある中央政府による東パキスタン支配に対する東パキスタンの人々の不満が高まり、各種の反政府運動が行なわれた。ヤヒヤー・ハーン、ムジブル・ラフマン、そしてパキスタン人民党総裁のズルフィカール・アリー・ブットーによる三者会談も最終的には決裂し、1971年3月25日の深更には東パキスタンに駐屯するパキスタン軍部隊によるな東パキスタン人民に対する大規模な武力弾圧が開始された。これと同時にアワミ連盟は非合法化され、ラーマンは逮捕された。この弾圧開始後インドヘ避難した難民の数は12月3日の開戦直前までに約1,000万人に近づいたといわれ、インドの経済、社会、政治に深刻な影響を与え、印巴関係は次第に悪化し難民問題は戦争の直接的な原因となるに至った。そして1971年4月17日にはバングラデシュ人民共和国政府がインド領内において樹立され、インドは同政府を公然と支持した上でゲリラの訓練や武器供与などを行い積極的に支援を行った。インドは、対外的には東パキスタン問題は東西パキスタン間の政治的解決による以外解決の方法はないとして印巴間の外交交渉を拒否し続ける態度をとっていた。またこの頃は雨期であったためゲリラ活動は不活発であったが、雨期明けと共に活発化し、時局が緊迫する中でガンディーは10月24日より20日間ベルギーオーストリアイギリスアメリカフランスドイツの6ヶ国を訪問しインドの立場について各国の理解を求めた。この間、ブットーを団長とするパキスタン政府代表団は11月5日より3日間中華人民共和国を訪問した。日本や米ソ英仏などの主要国の外交努力及び国際連合(国連)による調停工作もさしたる効果を上げぬまま、11月21日東パキスタン国境地帯全面にわたってインド軍に支援されたバングラデシュ軍の本格的攻撃が開始された。これに対しパキスタン空軍は12月3日、シュリーナガルアムリトサル、パタンコートなどのインド空軍基地を空爆するとともにカシミール停戦ラインを越えてインド側に侵攻し、インド軍もこれに対し反撃を行い印巴両国は遂に全面戦争に突入した[6]

停戦後の情勢

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停戦後の印巴両国関係調整に際し、西パキスタンに抑留されていたラーマンの処遇が最大の焦点となっていたところ、1972年1月8日ラーマンは釈放されイギリス、インドを経由して10日ダッカに帰還したが、到着直後バングラデシュ国民に対し「パキスタンとの絆は断たれた。バングラデシュは社会主義民主主義および脱宗教主義を基本原則とする」旨の声明を行った。1月12日にはラーマンは同国の首相に就任し、戦闘後の同国軍の武装解除を指令するなど国造りの第1歩を踏み出したが、この頃より本紛争の直接の原因となった東パキスタン難民の帰国は急速な進捗を見せ始めた。ラーマンは首相就任後初の外国訪問として2月6日から2日間コルカタを訪問し、ガンディーと会談してバングラデシュに残留するインド軍部隊は3月25日までに撤退することが決定。その後撤兵の時期は早まり、3月16日に撤退は一応終了した。ラーマンはインド訪問に次いで3月1日から3月5日にかけてソ連を訪問し、ソ連がバングラデシュに対し各種の経済援助を約束したことが共同宣言により発表された。その後3月31日には面国の間で貿易協定も締結され、ソ連との関係緊密化が決定的となった。バングラデシュ最初の独立記念日である3月26日には、ラーマンはラジオを通じて銀行保険会社など各種産業の国有化、新憲法の制定などの方針を明らかにし、対外的には非同盟および平和共存の外交方針を堅持する旨を発表した[6]

バングラデシュの承認問題については、戦時中の12月16日にインド、12月7日のブータンの承認に続き、停戦成立後の1972年1月に入ると東側諸国を始めビルマ、ソ連、英国、西ドイツなどの承認が続き、日本も2月10日に承認を行った。その後承認国は増加し、3月末には54カ国に達した[6]

停戦後のパキスタンではヤヒヤー・ハーンが大統領を辞任し、12月20日にブットーが大統領兼戒厳総司令官に就任した。ブットーはバングラデシュとの関係調整については「東パキスタンはパキスタンの一部である」と強硬姿勢を固持し、各国に対し旧東パキスタンとの合意が成立するまで承認を待つよう要請すると共に一部の承認国に対しては報復措置として国交を断絶。またイギリス連邦加盟諸国のバングラデシュ承認を見越して1月30日には英連邦を脱退した。その後ブットーは1月24日から1月28日にかけてトルコモロッコアルジェリアチュニジアリビアエジプトシリアといったイスラム世界の国々を訪問したのに引続き1月31日には中国・北京を訪問し、インドを非難した両国共同声明を発表した。また内政面においては軍の機構改革と人事異動を発表し、3月6日にはラジオを通じて、国会の開会と戒厳令の撤廃を行った。一方で外交活動も引続き活発で、ブットーはソ連をも訪問した。またこの間、イギリス外相アレック・ダグラス=ヒュームのパキスタン訪問も行なわれている[6]

またインドにおいては同年3月17日から3月19日にかけてガンジーがバングラデシュを公式訪問し、印孟両国間で友好協力平和条約が締結され、その期限は25年間とされた。そしてその事で両国の関係はより緊密なものとなった。また戦後初のインドの州議会議員選挙では与党のインド国民会議が勝利し引き続き政権を持つ事となった。そしてインドの外相ケワル・シンアフガニスタンとソ連を訪問し、南アジア地域の外交関係がより発展する兆しを見せた[6]

他国の対応

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国連では1971年12月4日から12月6日にかけてこの戦争に関する問題を討議したが、米中ソの三大国の利害と思惑が激しく対立したため国際連合安全保障理事会に提出された決議案はいずれも否決され、この問題に対する国連安保理常任理事国である米中ソ間の見解の相違を調整することが不可能となり、12月6日の安保理の決議によって問題は総会に付託審議される事となった。同決議に基づき、12月7日の総会は印巴両国間の戦争に関する審議を行い、日本を含む33ヶ国の共同提案になる決議案が絶対多数で可決された。しかし、印巴の両軍武力衝突収拾のための効果的措置をとることはできず、結果的には東パキスタンにおけるインド軍の勝利によって停戦がもたらされた[6]

アメリカはこの戦争において当初から中立の立場を表明しパキスタン軍による武力弾圧当時には若干東パキスタン側に好意的な態度を見せていたが、1971年夏以降漸次西パキスタン支持の態度を明らかにし、12月15日にはアメリカ軍の第7艦隊の一部をベンガル湾へ派遣した。ソ連は同地域においてパキスタン軍により武力弾圧が開始された後間もなく、4月2日最高幹部会議長ニコライ・ポドゴルヌイよりヤヒヤー・ハーンあてに書簡を送り、パキスタン政府軍の弾圧を非難。この問題の政治的解決を要求してインドの立場を支持した。更に8月9日にはインドとの間に期間20年の平和友好協力条約を締結し、国連におけるこの問題の討議においては終始インドの立場を支持し特に中国との間に激しい応酬が交わされた。中国は1962年の中印国境紛争以来パキスタンと顕密な関係にあり、パキスタン軍による東パキスタン武力弾圧に際しては一切の公式表明を行なわず注目された。そして今回の第三次印巴戦争に際しても終始パキスタン支持の立場をとり、国連においては激しいソ連、インド非難を行った。また中国は在ダッカ中国総領事館を1971年12月に閉鎖し館員は全員72年1月に帰国した。またアメリカ大統領リチャード・ニクソン訪中の際に発表された共同声明においても、中国はパキスタン支持を堅持した[6]

関連項目

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脚注

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  1. ^ インド=パキスタン戦争/印パ戦争”. 世界史の窓. 2023年5月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g インドの戦争―印パ戦争と印中国境紛争―”. 防衛研究所. 2023年5月25日閲覧。
  3. ^ a b c d 第3次印パ戦争”. コトバンク. 2023年5月25日閲覧。
  4. ^ a b Bitter truths about the 1971 Indo-Pak war”. Pakistan Today (2022年12月16日). 2023年5月25日閲覧。
  5. ^ a b جدول خسائر القوات الهندية والباكستانية في حرب ديسمبر 1971”. アルジャジーラ. 2023年5月25日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 第8節 インド亜大陸の情勢”. 外務省 (1972年). 2023年5月25日閲覧。