米山米鹿
表示
米山 米鹿 | |
---|---|
生誕 |
1888年7月30日 日本 東京府 |
死没 | 1960年5月21日(71歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
米山 米鹿(よねやま よねしか、1888年(明治21年)7月30日[1] - 1960年(昭和35年)5月21日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。
経歴
[編集]1888年(明治21年)に東京府で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[1]。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍歩兵大佐進級と同時に留守第1師団司令部附(東部防衛司令部[3][4])となり[2]、1938年(昭和13年)6月に歩兵第70連隊補充隊長(中部防衛司令部・留守第4師団[5][6])に就任した[2]。1940年(昭和15年)3月9日に独立混成第2旅団司令部附(駐蒙軍[7][8])となり[2]、8月1日に歩兵第170連隊長(南支那方面軍・第104師団・歩兵第107旅団[9][10][11])に就任して日中戦争に出動した[9]。
1941年(昭和16年)6月28日に第52師団司令部附(東部軍[12][13])となり[2]、8月25日に陸軍少将進級と同時に第52歩兵団長(東部軍・第52師団[12][13])に着任した[1][2]。1942年(昭和17年)12月に独立混成第22旅団長(第23軍)に転じ[1]、中国戦線に出征[1]。同旅団はのちに第11軍隷下に編入され[1]、桂柳会戦では西江沿岸の第23軍兵站戦の守備に任じ[1]、終戦時は全県に位置した[14]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[15]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 802頁.
- ^ a b c d e f 外山 1981, 286頁.
- ^ 外山・森松 1987, 566頁.
- ^ 外山・森松 1987, 567頁.
- ^ 外山・森松 1987, 569頁.
- ^ 外山・森松 1987, 570頁.
- ^ 外山・森松 1987, 527頁.
- ^ 外山・森松 1987, 529頁.
- ^ a b 外山・森松 1987, 553頁.
- ^ 外山・森松 1987, 555頁.
- ^ 外山・森松 1987, 556頁.
- ^ a b 外山・森松 1987, 573頁.
- ^ a b 外山・森松 1987, 575頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1270頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」212頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。