米田栄作
米田 栄作(よねだ えいさく、1908年6月15日 - 2002年8月5日)は、広島県広島市生まれの詩人。戦後、「川よ とわに美しく」をはじめとして、生涯にわたり原爆をテーマとした詩人として知られる。本名は米田 栄(さかえ)。
経歴
[編集]広島市商業学校在籍時より詩作を始める。広島南方詩人協会や三角州(デルタ)詩人連盟の結成にたずさわり、『日本詩人』や『椎の木』などへの参加を経て、処女詩集『鳩の夜』を1937年に発表するも、まもなく詩から離れる。
1945年8月6日、広島で被爆し、両親と三男を失い、自身も右目を失明した[1]。崩壊した街を枕崎台風や阿久根台風が襲うが、それにより広島の川が蘇ったと見た米田は詩作を再開する。1948年、峠三吉らと広島詩人協会を結成。「広島であってこそ出来る仕事(ヒロシマ派)」を主張する(詩誌『地殻』創刊号[2])。1951年、第2詩集『川よ とはに美しく』を発表。翌年、増補版『川よ とわに美しく』として刊行され、米田の名を広く知らしめた。反響は日本のみにとどまらず、ロシアの作曲家・アルフレート・シュニトケは、メゾソプラノ、混声合唱、管弦楽のためのオラトリオ「長崎」(1958年)において、米田の「荒廃に立ちて」「川よ とわに美しく」(露訳)を使用している[3]。
経営者として、父が築き上げた建材店を株式会社にまで成長させるかたわら、詩作に取り組み続け、詩集『未来にまでうたう歌』『八月六日の奏鳴』を出版。後者はインドのネルー首相にも届けられた。1967年、広島詩人協会長に就任。2002年に肺炎のため逝去[4]。
詩集
[編集]- 鳩の夜(晩鐘社、1937年) - シュールレアリズムの影響を受けた前衛的な詩集。22篇。
- 川よ とはに美しく(新文明社、1951年) - 広島で出版。28篇。広島市長の浜井信三や市議会議長の砂原格が跋文を寄せている。
- 川よ とわに美しく(第二書房、1952年) - 東京で出版。48篇。初版から5篇を削除し、新たに第二部として25篇を収録。室生犀星や百田宗治が寄せている。
- 未来にまでうたう歌(ぷれるうど詩話会、1955年) - 22篇。二部から成る。
- 八月六日の奏鳴(季節社、1961年) - 24篇。
- 不一の花々(湯川書房、1973年) - 『鳩の夜』の再録に加え、拾遺をおさめる。
- 広島不虚(湯川書房、1973年) - 『川よ とわに美しく』『未来にまでうたう歌』『八月六日の奏鳴』の合本。
- デルタ曼陀羅 素吟(木精社、1992年) - 最後の詩集。20篇。
音楽作品
[編集]彼の詩は複数の作曲家によって音楽作品となり、いくつかは録音・出版されている(シュニトケ「長崎」も出版・CD化されたものの1つ)。()内は作曲家。
- 川の華鬘(星出敏一)
- 未来にまでうたう歌(市場幸介) - 1955年に交響風物詩「未来にまでうたう歌」として発表。民放祭洋楽部門第2位。後にカンタータとして改編。
- 巷塵(市場幸介)
- デルタの歌(吉田盈照)
- 交響曲「広島の街は蘇る」(田中敬)
- 交響詩「雲」(古屋良男)
- 千羽鶴に捧げるレクイエム(山崎登)
- 川よ とわに美しく(三枝成彰) - 合唱組曲。芸術祭優秀賞を受賞。日本の合唱作品100選。
- 川よ とわに美しく Part2(三枝成彰)- 合唱組曲。
- 無言歌(尾上和彦) - 合唱組曲。
- 三つの楽章よりなるデルタ交響詩(吉田盈照)
- 八月六日の砂(遠藤雅夫) - 合唱組曲「石の焔」所収。
- 「広島不虚」より「四章」(黒住彰博他)
脚注
[編集]- ^ 朝日新聞、1986年1月21日付夕刊、P.2
- ^ 『米田栄作詩集』土曜美術社出版販売、2006年、p.166
- ^ 2009年に読売日本交響楽団が日本初演。 作品については、秋元更予「シュニトケ《オラトリオ「長崎」》日本初演に寄せて」に詳しい。
- ^ 朝日新聞、2002年8月6日付朝刊、P.31