米田町 (加古川市)
米田町 よねだちょう | |
---|---|
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 兵庫県 |
自治体 | 高砂市米田町 |
旧自治体 | 印南郡米田町 |
面積 |
1.67km² |
世帯数 |
2,311世帯 |
総人口 |
5,929人 (推計人口、2013年12月1日) |
人口密度 |
3,550.3人/km² |
隣接地区 |
加古川町、東神吉町 高砂市 |
高砂市米田町役所米田加古川西市民センター | |
北緯34度47分10.5秒 東経134度48分56.9秒 / 北緯34.786250度 東経134.815806度座標: 北緯34度47分10.5秒 東経134度48分56.9秒 / 北緯34.786250度 東経134.815806度 | |
所在地 |
〒675-0054 兵庫県高砂市米田町米田町平津384-2 |
米田町(よねだちょう)は、加古川市の一地域である。1956年(昭和31年)、印南郡米田町のうち船頭、平津地区を編入した地域である。
地理
[編集]米田町は、東側は加古川を挟んで加古川町、南側は高砂市、北側は東神吉町と隣接している。大字として米田町船頭・米田町平津がある。人口は、2013年12月1日現在、5,929人(男2,775人、女3,121人)、面積は、3.41 km2[1] である。
歴史
[編集]米田町船頭は、1889年(明治22年)まで印南郡船頭村であった。第12代加古川城主糟谷武則の弟である糟谷武政が、大坂夏の陣の後、帰農した。当時加古川は、上流の益田で二つの流れに分かれており、船頭地区はその流れの間に位置していた。住民は主に、加古川を渡る旅人のための渡船業を営んでいた。江戸時代の治水事業により西側の流れがせき止められ、川跡は、開墾されたが、加古川に近いことからたびたび水害に悩まされ、農地開発は進まなかった[2]。
米田町平津は、1889年(明治22年)まで印南郡平津村であった。名の由来は、その地にあった荘園の名による[3]。1664年(寛文4年)、福正寺が創建された[4]。
1889年(明治22年)に印南郡米田村の一部となった。1918年(大正7年)から加古川河川改修工事が開始され、1933年(昭和8年)に竣工した[5]。1919年(大正8年)に日本毛織印南工場が操業を開始し[6]、工場・社宅・休養施設が次々に建設された。1950年(昭和25年)10月6日、国民健康保険直営宝殿病院[7]が開院した。1956年(昭和31年)9月18日に兵庫県合併審議会の裁定の結果、米田町の船頭・平津地区は、加古川市に編入された[8][9]。1980年(昭和55年)4月1日、加古川夜間急病病院が、1995年(平成7年)4月、 加古川歯科保健センターに設立された。2006年(平成18年)にはロックタウン加古川が開業した[10]。
小中学校
[編集]- 小学校
- 中学校
- (本地域になし。当地区の中学生は加古川市立神吉中学校へ通学)
公共施設
[編集]- 加古川夜間急病病院
- 加古川歯科保健センター
- 加古川西市民センター
企業
[編集]- 日本毛織印南工場
- 加古川船頭郵便局
- 米田郵便局
商業施設
[編集]寺社
[編集]交通
[編集]- 鉄道
- 道路
関連項目
[編集]出身著名人
[編集]- 平野庸脩(ひらのようさい) - 「播磨鑑」の著者
脚注
[編集]- ^ 地区別面積
- ^ 兵庫県印南郡 1916, p. 19.
- ^ 兵庫県私立印南郡教育会 1906, p. 19.
- ^ 兵庫県印南郡 1916, p. 147.
- ^ 国土交通省 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所. “加古川水の新百景 No.105 加古川改修記念碑”. 2014年1月3日閲覧。
- ^ ニッケグループ. “ニッケグループ沿革”. 2014年1月1日閲覧。
- ^ 後に加古川西市民病院となるが2016年閉院し、2018年、跡地にフェニックス加古川記念病院が開院
- ^ 加古川市誌編集委員会 2000, pp. 861–865.
- ^ 加古川市誌編集委員会 2000, pp. 873–875.
- ^ 日本毛織株式会社. 2006ニッケレポート (PDF) (Report). p. 5. 2014年1月11日閲覧。
出典
[編集]- 私立印南郡教育会『印南郡誌』兵庫県印南郡曽根町、1906年 。2014年1月4日閲覧。
- 兵庫県印南郡『増訂印南郡誌』 前編兵庫県印南郡曽根町、1916年 。2013年12月27日閲覧。
- 加古川市誌編集委員会『加古川市史 記述編』 3巻、加古川市〈近・現代編〉、2000年。