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網干町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あぼしちょう
網干町
網干町章
網干町章
1914年11月4日制定[1]
廃止日 1946年3月1日
廃止理由 新設合併
姫路市網干町飾磨市白浜町広畑町余部村勝原村大津村姫路市
現在の自治体 姫路市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 兵庫県
揖保郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 11,483
国勢調査[2]、1940年)
隣接自治体 余部村勝原村大津村石海村御津村
町の歌 網干町歌(1928年制定)
網干町役場
所在地 兵庫県揖保郡網干町
座標 北緯34度47分21秒 東経134度35分20秒 / 北緯34.78922度 東経134.58883度 / 34.78922; 134.58883座標: 北緯34度47分21秒 東経134度35分20秒 / 北緯34.78922度 東経134.58883度 / 34.78922; 134.58883
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網干町(あぼしちょう)は、かつて兵庫県に存在していたである。1946年に姫路市などと合併し消滅した。現在は姫路市網干区となっている。

沿革

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  • 1889年(明治22年)4月1日 町村制施行に伴い、揖東郡新在家村、興濱村、余子濱村、大江島村、揖西郡濱田村が合併し、揖東郡網干町発足。新在家字網干浜687番地に町役場を置いた。
  • 1896年(明治29年)4月1日 揖東郡揖西郡が合併し揖保郡に。
  • 1898年(明治31年)2月 町役場を新在家戎濱町366番地に町役場を移転。
  • 1914年(大正3年)7月 町役場を新在家586、587、並に興濱26の1番地に町役場を移転。町政廃止まで使用した。
  • 1928年(昭和3年) 網干町歌(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)を制定。
  • 1942年(昭和17年)4月1日 揖保郡旭陽村を編入。
  • 1946年(昭和21年)3月1日 (旧)姫路市、飾磨市、白浜町、広畑町、余部村、勝原村、大津村とともに姫路市を新設し消滅。

行政

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歴代町長

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  1. 加藤邦太郎1889年(明治22年)4月-1894年(明治27年)4月)
  2. 中圓尾善左衛門(1894年(明治27年)4月-1895年(明治28年)7月)
  3. 加藤邦太郎(1895年(明治28年)8月-1895年(明治28年)12月)
  4. 中圓尾善左衛門(1896年(明治29年)9月-1898年(明治31年)6月)
  5. 山内武平(1898年(明治31年)8月-1902年(明治35年)9月)
  6. 近藤弥五郎1903年(明治36年)2月-1903年(明治36年)7月)
  7. 加藤邦太郎(1903年(明治36年)11月-1905年(明治38年)9月)
  8. 中圓尾善左衛門(1905年(明治38年)12月-1907年(明治40年)1月)
  9. 中圓尾善左衛門(1907年(明治40年)6月-1908年(明治41年)6月)
  10. 奥本傳吉(1908年(明治41年)6月-1927年(昭和2年)11月)
  11. 山本真蔵1929年(昭和4年)4月-1934年(昭和9年)9月)
  12. 宮垣幸吉(1934年(昭和9年)9月-1946年(昭和21年)2月)

当時の制度では町長の任期は6年であるが、第2代~第9代まで短期での交代が相次いだ。また町長不在期間も長い時には1年以上に及んでいる。網干町は幕藩時代にその管轄が三分されていた関係から、各村ごとに気風を異にし融和を欠き、これは町政上の一大難関として存在した[3]

脚注

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  1. ^ 一名・自治体の紋章 近藤春夫 著, 行水社出版, 21頁
  2. ^ 国勢調査後に編入した旧旭陽村域を除く
  3. ^ 川嶋右次・藤本槌重編『網干町史』網干町史刊行会、1951年(昭和26年)1月1日発行、p.664~666

関連項目

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