織田ステノ
おりた ステノ 織田 ステノ | |
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生誕 |
1902年7月20日[注 1] 北海道 |
死没 |
1993年4月30日(90歳没) 北海道静内町 |
死因 | 急性肺炎 |
国籍 | 日本 |
別名 | 織田 ステ(戸籍名) |
民族 | アイヌ |
時代 | 昭和 - 平成 |
団体 | 静内民族文化保存会 |
著名な実績 | アイヌ語、神事、口承文芸、生活文化などのアイヌ文化の伝承、後進の指導 |
影響を与えたもの | 計良智子、小川早苗 |
活動拠点 | 北海道静内町 |
受賞 | 北海道文化財保護功労賞(1984年) |
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日[3][注 1] - 1993年〈平成5年〉4月30日[3])は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ[1][4]、特にユカㇻの伝承者として知られる[5][6]。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている[3]。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており[6]、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている[7]。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり[5][6]、戸籍名は織田 ステ[3]。
経歴
[編集]アイヌの集落であるノヤコタン(静内町農屋、現在の新ひだか町)で誕生した[5]。幼少時に両親と死別し、母の実家で、祖母のもとで育てられた[1][8]。祖母はアイヌとしての風習を厳格に守った人物であり[7]、祖母との生活を通じて、伝統的なアイヌの風習、生活文化、言葉を身につけると共に、ユカㇻなどの民俗文化を受け継いだ[5]。家族の方針で学校へ通うことはなく、祖母の言葉がアイヌ語のみだったため[1][9]、アイヌ語を母語、日本語を第二言語として育った[10]。
十代の頃から静内村(現・新ひだか町)で農業に従事し、第二次世界大戦後は農地経営を行っていたが、1970年代以降は徐々に農業から退き、白老町のアイヌ民族博物館や、静内町教育委員会などの業務に協力した[3]。1972年(昭和47年)からは、静内民族文化保存会の顧問を務めた[5]。
晩年は研究者に協力すると共に、後進に対して、アイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などの指導に努めた[3]。アイヌ民族博物館では、女性に関する知識を始めとする多くの伝統的技術や、イオマンテなどの伝統儀礼などで、指導的な役割を務めた[2]。聞き取り調査においても、日本全国の食文化を聞き書きで記録する『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)の第48巻『アイヌの食事』などで[11]、多数の資料を残すことに協力した[2]。1984年(昭和59年)にはこれらの功績により、北海道文化財保護功労賞を受賞した[2][5]。
1990年代においては、日常生活でもアイヌ語を使いこなし、ユカㇻを伝承している者のわずか数人の内の1人であった[12]。1992年(平成4年)には苫小牧市で、北海道ウタリ協会の主催による第4回アイヌ民族文化祭で、口承文学の第一人者としてユカㇻを語り、開場からの拍手を呼んだ[4]。
最晩年には、ステノのユカㇻの聞き取りをもとにした『静内地方の伝承 織田ステノの口承文芸』が、静内町郷土史研究会から出版された[6]。その第3巻が1993年(平成5年)に発行されたばかりの翌月[6]、入院先の静内町の静仁会静内病院で、急性肺炎のために90歳で死去した[5]。静内町教委学芸員の古原敏弘は、ステノを「アイヌ語で育ったほとんど最後の1人」とし、「まだ形にできていない伝承が多い」と、その死を偲んだ[5]。
没後
[編集]死去と同年の1993年、アイヌ無形文化伝承保存会により、アイヌ文化入門ビデオ『アイヌ文化を学ぶ』が制作され、ステノや白沢ナベが語るユカㇻなどのアイヌ文化が収録された[13]。この作品は1994年(平成6年)、財団法人日本視聴覚教育協会主催による優秀映像教材選奨で優秀作品賞を受賞した[13]。1995年(平成7年)には英訳版が制作され、アメリカのアラスカ州で開催された「第1回ノーザン・ライツ国際映画祭」で上映され、高い評価を得た[13]。
2009年(平成21年)ステノの語ったユカㇻを原作とする人形劇「アイヌの超人伝説『空とぶ少年ポイヤウンペの冒険』」が、札幌の子供劇場であるやまびこ座と札幌市こども人形劇場こぐま座により制作され、上演された[14]。
2015年(平成27年)には新ひだか町静内山手町の山手公園に、新ひだか町図書館・博物館が開館し、アイヌ文化を題材とした一角には、ステノの残した口承文芸を聞くことのできる設備が整った[15]。映像や生きたアイヌ語の音声資料は、これまでに存在しなかった展示方法である[15]。
ステノに影響を受けた人物として、アイヌ文化の保存と伝承に取り組む市民団体「ヤイユーカラの森」の創設者である計良智子は、ステノの家に1年間住み込み、伝統料理や伝承などを学んだ[16]。計良智子は、ステノとの生活を通じて、自分がアイヌ女性としての生き方や考え方を、今後の進むべき道を教わったと語っている[17]。札幌のアイヌ刺繍作家の小川早苗は、ステノから「和人のふりをせず、アイヌであることを誇り生きろ」と教わったことが、伝承活動を始めるきっかけとなったと語っている[18]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 計良 2018, p. 69
- ^ a b c d 安田 2021, p. 52
- ^ a b c d e f 金子他 2008, p. 10
- ^ a b 「伝統への誇り伝える、盛大にアイヌ民族文化祭」『北海道新聞』北海道新聞社、1992年2月16日、全道朝刊、25面。
- ^ a b c d e f g h 「織田ステさん死去 ユーカラ伝承者」『北海道新聞』1993年4月30日、全道夕刊、17面。
- ^ a b c d e 「訃報 織田ステさん」『産経新聞』産業経済新聞社、1993年5月1日、東京朝刊、25面。
- ^ a b 萩中他 1992, p. 204
- ^ 奥田統己「織田ステノのイコペプカ」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第4号、北海道立アイヌ民族文化研究センター、1998年3月1日、101頁、NCID AN10475555。
- ^ 萩中他 1992, p. 14
- ^ 計良 2018, p. 70
- ^ 「おばあさんの知恵、山盛り…「アイヌの食事」近く刊行 山菜や酒造、儀式の料理、口承物語も。聞き書き集大成、「樺太」からも具体例」『北海道新聞』1992年11月4日、全道朝刊、21面。
- ^ 伊藤直紀「ひと・まち・くらし いま地域では 静内町 アイヌ文化、どう伝承。民族の言葉を話せぬ若者。経済的な自立を優先」『北海道新聞』1990年9月29日、全道朝刊、14面。
- ^ a b c 土屋信明「アイヌ文化、外国人にも分かりやすく 日英語ビデオ、保存会が制作」『毎日新聞』毎日新聞社、1996年11月14日、北海道夕刊、6面。
- ^ 富樫利一「朝の食卓 ピラサンヤン ヌヤン ヌカラン」『北海道新聞』1992年4月11日、全道朝刊、30面。
- ^ a b 清水泰斗「なんでも日胆 広々 新たな文化拠点 4月開館 新ひだか町図書館・博物館 博物館 資料、映像多彩に 図書館 朗読室を新設」『北海道新聞』2015年2月28日、苫C朝刊、31面。
- ^ 「訃報 計良智子さん(ヤイユーカラの森代表)」『北海道新聞』2016年3月18日、全道朝刊、36面。
- ^ 計良 2018, p. 11
- ^ 清水泰斗「アイヌ古老の教え 伝承 刺しゅう家・小川さん講演 新ひだか」『北海道新聞』2014年11月26日、日高朝刊、24面。
参考文献
[編集]- 金子幸子他 編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2008年1月10日。ISBN 978-4-642-01440-3。
- 計良智子『フチの伝えるこころ アイヌの女の四季』寿郎社、2018年12月20日。ISBN 978-4-909281-13-5。
- 萩中美枝他『聞き書 アイヌの食事』農山漁村文化協会〈日本の食生活全集〉、1992年11月20日。ISBN 978-4-540-92004-2。
- 安田千夏「アイヌ口承文芸(散文説話)にみる神の衣装表現について アイヌ語アーカイブ資料の分析」『北海道博物館アイヌ民族文化研究センター研究紀要』第6号、北海道博物館、2021年3月1日、51-59頁、CRID 1520010381330444800。