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翔鶴丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
翔鶴丸
基本情報
建造所 ニューヨーク市[1]
運用者 江戸幕府[1]
朝廷[2](明治政府)
艦種 運輸船[1](または軍艦[2])[注釈 1]
艦歴
竣工 安政4年(1857年)製造[1]
就役 文久3年11月9日購入[1]
最期 明治元年11月沈没[3]
改名 ヤンチー[2] → 翔鶴丸[1]
要目
総トン数 350総トン[1][2]
長さ 198 ft (60.35 m)[1]
24 ft (7.32 m)[1]
機関 蒸気機関[1]
推進 外輪[2](またはスクリュー[1])[注釈 2]
出力 350馬力[1]
乗員 慶応4年1月定員:123名[4]
その他 船材:木[1]
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翔鶴丸(または翔鶴、しょうかく、しやうかく[2])は幕府海軍明治政府の運輸船[1](または軍艦[2])[注釈 1]日本海軍艦籍の第2号[5]。 艦名は「上空を翔る鶴」の意味[2]

艦歴

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前身は1857年(安政4年)にアメリカニューヨークで建造された商船[要出典]ヤンチー」(Yangtse、揚子)[2][5]外輪式(またはスクリュー推進)[注釈 2]の木造蒸気船であった[2][1]。 文久3年11月29日(1864年)横浜イギリス・デント組合から江戸幕府が145,000ドルで購入し[1][5]翔鶴丸(翔鶴[2])と命名した[5]

幕府海軍では運送船とされたが、若干の武装を施して運用された。[要出典]

文久3年12月から翌年1月にかけ、「翔鶴丸」は将軍徳川家茂の再上洛に用いられた[6]

元治元年2月、輸送船との区別のため軍艦は「丸」を省いて呼ぶこととされた[7]。この際、「翔鶴」他5隻が軍艦とされている[7]

元治元年3月、「翔鶴丸」は八丈島へ派遣された[8]

元治元年8月には、小栗忠順の交渉で、横浜停泊中のフランス軍艦乗員による修理を受けた[要出典]。 この際のフランス側の作業の誠実さゆえ、幕府はフランスを強く信頼するようになり、以後の親密な幕仏関係の端緒となった[要出典]

第二次長州征討前夜、慶応2年5月29日までに「富士山」、「翔鶴」(佐々倉桐太郎指揮)、「長崎丸二番」、「大江丸」、「旭日丸」は安芸国宇品港へ進出[9]。「翔鶴」は「長崎丸二番」とともに老中小笠原長行と大目付兼軍艦奉行木下利義を小倉へ運んだ後、「旭日丸」と「八雲丸」を曳航して厳島へ移り[9]、それから大島口の戦いに参加する。

6月8日、「翔鶴」と「富士山」は大島を砲撃した[10]。6月11日、「翔鶴」、「八雲丸」、「旭日丸」の砲撃に続いて陸軍方が久賀へ上陸した[11]。6月16日から17日にかけても「翔鶴」は砲撃を行っている[12]。戦況は幕府側に不利になり、6月19日に陸軍方は「翔鶴」など4隻に乗り撤退した[13]

次いで小倉口の戦いの参加する。「翔鶴」は6月25日に沓尾に着き、6月27日に「富士山」とともに小倉へ向かった[14]。7月3日、長州側の攻撃が始まり、「翔鶴」と「富士山」は彦島、大里に対する攻撃を開始したが、「富士山」は大砲の破裂事故発生で離脱した[15]。7月17日の「 回天」到着後、「翔鶴」は修理のため長崎へ向かった[16]

旧幕府と薩長などとの開戦時は「翔鶴」は大坂湾にあり、他艦と共に兵庫港封鎖を行っている[17]鳥羽・伏見の戦いの戦い後は「順動丸」とともに正金5万7569両3分を紀州藩領和歌浦へ運んだ[18]

慶応4年4月11日(1868年)に、大政奉還後の旧幕府から明治政府へ、「朝陽丸」「観光丸」「富士山」とともに上納[1]、 4月28日引き渡された[19]。 日本海軍艦籍の第2号となる(第1号は「朝陽丸」)[5]さっそく戊辰戦争では明治政府方で使用されたが、[要出典] その年の同年11月に肥前藩の兵隊を乗せて大阪から東京へ回航の途中、網代湾で沈没した[5][3][20]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b #日本近世造船史明治(1973)p.84、同書p.172では運輸船とし、#艦船名考(1928)pp.2-3では軍艦としている。#日本近世造船史明治(1973)pp.89-90に『運輸船中、順動・翔鶴・大江の三隻は、適宜に依リ、大砲を搭載し、軍艦に代用せられたることもあるも、是れ、一時の方便に過ぎざるが故に、軍艦に参入せず』としている。
  2. ^ a b #日本近世造船史明治(1973)p.84、同書p.172では(スクリューの意味)とし、#艦船名考(1928)pp.2-3では蒸気外車としている。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #日本近世造船史明治(1973)p.84
  2. ^ a b c d e f g h i j k #艦船名考(1928)pp.2-3
  3. ^ a b #日本近世造船史明治(1973)p.172
  4. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.201-202、慶応四年軍艦ノ定員
  5. ^ a b c d e f #銘銘伝2014pp.168-170、翔鶴(しょうかく)
  6. ^ 『幕府海軍の興亡』152-153ページ
  7. ^ a b 『幕府海軍の興亡』170ページ
  8. ^ 『幕府海軍の興亡』166ページ
  9. ^ a b 『幕府海軍の興亡』177ページ
  10. ^ 『幕府海軍の興亡』178ページ
  11. ^ 『幕府海軍の興亡』180ページ
  12. ^ 『幕府海軍の興亡』182ページ
  13. ^ 『幕府海軍の興亡』182-183ページ
  14. ^ 『幕府海軍の興亡』184-185ページ
  15. ^ 『幕府海軍の興亡』185ページ
  16. ^ 『幕府海軍の興亡』184、186ページ
  17. ^ 『幕府海軍の興亡』208-210ページ
  18. ^ 『幕府海軍の興亡』211ページ
  19. ^ #M1公文類纂拾遺/富士外3艦引渡済画像1、兵部省書類妙録91『軍艦之儀去ル二十四日申上候通 富士 朝陽 翔鶴 観光 右之船々昨二十八日海軍御総督御附属濱野源六立合之上無滞御引渡相済申候此段御届申上候以上 田安中納言 四月二十九日 慶頼』
  20. ^ #M2公文類纂/翔鶴艦豆州網代港ニ於テ沈没画像1

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 富士外3艦引渡済田安家届』。Ref.C09090008500。 
    • 『明治2年 公文類纂 完 本省公文/海軍日誌 10月 翔鶴艦豆州網代港に於いて云々民部省へ掛合他1件』。Ref.C09090021300。 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本の海軍建設』慶應義塾大学出版会、2017年、ISBN 978-4-7664-2421-8
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 

関連項目

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