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聖園テレジア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

聖園 テレジア(みその てれじあ、1890年12月3日 - 1965年9月14日)は、ドイツヴェストファーレン州出身のカトリック教会修道女、女性教育者日本各地に保育所養護施設医療施設を開設[1]

略歴

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家族

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  • 父:テオドル・イレルフウス(1936年没)
  • 母:アンナ・イレルフウス(1901年没)
    • 兄:テオドル(1962年没)
    • 妹:マリア
      エリザベト
      アンナ
    • 弟:ハインリヒ(テレジアの墓参のために没後に来日)
    • 異母兄弟:ヘルマン
      トーニー
      フランツ [3]

来日前後

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1890年ドイツヴェストファーレン州グロースレーケンに生まれる。

1896年、グロースレーケンのカトリック女子国民学校に入学する。1901年、母が重い病気にかかり、5人の小さい子どもを残して死去。その後、父は再婚する。 テレジアは幼少期から、外国に行ってキリスト教布教、貧しいかわいそうな人々を助けたいと考えていたが、母の教育に影響を受けたものだと、後年振り返っている。[17]

1904年にテレジアは国民学校を卒業する。

卒業後は生家を離れ、レッテ村のフラウ・シューメン家で家庭見習として、数年修行を勤めた。

聖心会(みこころ会)へ入会を志願したが、受け入れられず、傷心の日々を過ごす。[18]

1911年オランダのシュタイルにある海外布教修道女会である、聖霊会(聖霊奉侍布教修道女会)への入会を許された[19]。 2年の修練期を終え、1913年、テレジア22歳の時に日本へ向かうミッションに加わった。 9月14日に横浜港に到着し、翌日汽車で秋田県に向かった。

秋田県では、聖霊会(聖霊奉侍布教修道女会)が聖霊学院女子職業学校(現・聖霊女子短期大学付属高等学校[20])を経営しており、テレジアは専ら併設の育児部で孤児の世話を担当していた。楢山幼稚園・同孤児院に関わる[21])。この経験が、後のテレジアに大きな影響を及ぼす。[22]

天啓を得て、新しい修道会設立を目指すようになる。1919年、終生誓願を立てるべき日の前日に、6年を過ごした秋田県と修道会を去る。ヨゼフ・ライネルス教区長の導きと指示により、札幌のキノルド教区長を訪ねた。札幌の天使病院で3ヶ月を過ごし、1920年ヨゼフ・ライネルス教区長の命でふたたび秋田県に戻る。[22]

聖心愛子会設立

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ヨゼフ・ライネルス教区長に認められ、1920年5月31日、秋田市堀反で7人の日本人、3人のドイツ人とともに、初の邦人修道女会として、聖心愛子会を設立した [3]。 このうち2人のドイツ人シスター、シスター・ベンノーザとシスター・ゲオルギーナは、1920年に聖霊会を離れ、創立に参加した[23]

8月には志願者が増えて手狭になり、秋田市寺町42番地の廃屋同然の家を借り受けて移転。すぐに近所の子どもたちを集めて日曜学校を開始した。 市役所の許可を得て託児所(後の保育園)を開き、家庭巡回介護、寺町聖心園内に聖心養老院を開いた。

生活は苦しく、キリスト教への理解も低く、苦労の多い時代であった。

ヨゼフ・ライネルス教区長の支援により、1924年に秋田市保戸野新町10番地に本部を移す。 養護施設である聖園天使園を創設。

1926年には名古屋市に聖心愛子会の支部を設け、翌年1927年には名古屋市に愛子幼稚園が開園した。 同年にテレジアは秋田県知事より表彰を受ける。 また、7月23日に国籍をドイツから日本に帰化し、聖園テレジアと改名した。[7]

1930年新宿御苑でおこなわれた、昭和天皇皇后主催の観菊会に社会事業功労者として招待された[24] その後も、各地に保育所幼稚園養護施設肺結核療養所などを設置していった。テレジアは、各地の支部や施設を折にふれて巡回した。[25] 1938年、聖心愛子会の本部を神奈川県藤沢市に移転した。

1940年には、秋田県秋田市に聖園保母学院(現・聖園学園短期大学)を設立した。 同年、社会事業大会で厚生大臣から社会事業功労者として表彰され、1942年には神奈川県知事から表彰を受けた。

第二次世界大戦の中、1943年に神奈川県藤沢市に聖園戦時保育所、1944年横浜市に戦時保育所を開設した。空襲により、各地の支所に被害が出て、全焼するところもあった。藤沢市の本部も焼夷弾落下があったが、無事に戦後を迎えた。[26]

第二次大戦後

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1946年、神奈川県藤沢市に聖園女学園(現:聖園女学院中学校・高等学校)が創設された。

この頃、フランス人神父フロジャックと共に、昭和天皇香淳皇后と頻繁に面会している[27]1946年には香淳皇后に皇居で面会、藤沢市の本部への来訪を受ける。翌年の昭和天皇の東北地方訪問の際に秋田支部への来訪を受けた[28]。その後も葉山御用邸で面会をしている。1948年には社会事業功労者として昭和天皇に会食に招かれた。

1947年には全国社会事業大会で、厚生大臣から表彰された。神奈川県の浮浪児等対策委員に委嘱された。秋には体調を崩し、一時危篤となるが、翌年に回復する。1948年には中央児童福祉審議会の委員に委嘱された。

1949年、聖園女学院中学校に高等学校が併設され、本部の聖堂が完成した。翌年には来日以来、初めて帰国する。ローマを巡礼し、ドイツ、フランス北アメリカを回る。

1951年以降、体調を崩すことが増える。小康状態のときに、全国を回ることを継続していた。同年、藍綬褒章を受章した。

1962年朝日賞を受賞。病床にあったため、授賞式には会員が代理で出席した。同年、勲四等宝冠章を受ける。

1963年、病身にむち打ち、ドイツ訪問。ケルン支部を視察し、弟ハインリッヒとも面会する。神奈川文化賞を受賞。

1965年ドイツ連邦共和国のリュプケ大統領から大功労十字章を叙勲。体の具合が良く、叙勲伝達式のステージには上ることができたが、祝賀会には出席することができなかった。

1965年、高血圧に加えて肺炎を併発し、同年9月14日に死去した[29]。9月16日、秋田市保戸野すわ町で葬儀、遺体は藤沢本部聖堂へ移された。9月19日に本部葬、9月26日に聖イグナチオ教会にて社会福祉事業葬、10月5日に聖園女学院にて学院葬が行われた。勲三等瑞宝章を受章。

同年、聖園テレジア遺徳顕彰委員会(聖園女学院内)が発足した[30]。この委員会により、『聖園テレジア追悼録』が1969年に刊行された。

叙勲

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脚注

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  1. ^ a b 「読売新聞」1965年9月16日朝刊、p.15
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』デジタル増補版、講談社、2015年
  3. ^ a b c 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.395
  4. ^ 聖園テレジア(20世紀日本人名事典)”. コトバンク. 2020年3月3日閲覧。
  5. ^ a b c d 建学の精神・教育理念と沿革”. 聖園学園短期大学. 2020年3月7日閲覧。
  6. ^ クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『鴎外の降誕祭』NTT出版、2012年、p.320
  7. ^ a b 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.398
  8. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.416
  9. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.419
  10. ^ 創立母体とライネルス神父・沿革”. 聖園女学院中学校高等学校. 2020年3月4日閲覧。
  11. ^ 『昭和天皇実録 第十』東京書籍、2017、p.721
  12. ^ 朝日社会福祉賞”. 朝日新聞社. 2020年3月7日閲覧。
  13. ^ 神奈川文化賞歴代受賞者一覧”. 神奈川県. 2020年3月7日閲覧。
  14. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.425
  15. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.32
  16. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.426
  17. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.399
  18. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.348-350
  19. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.355
  20. ^ 本校の歴史”. 聖霊女子短期大学付属高等学校. 2020年5月10日閲覧。
  21. ^ 奥山順子「秋田県の幼稚園創設期におけるキリスト教会の役割 : 初期幼稚園にみる貴族性と養護性を中心に」『秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学』第61巻、秋田大学教育文化学部、2006年3月、71-81頁、CRID 1050282677936879616hdl:10295/573ISSN 13485288 
  22. ^ a b 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.361-364
  23. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.375
  24. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、p.404
  25. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.403-416
  26. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.416-420
  27. ^ 原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)、岩波書店、2015年、pp.188-192
  28. ^ 『昭和天皇実録 第十』東京書籍、2017、p.413
  29. ^ 「お悔み欄」『日本経済新聞』昭和40年9月15日夕刊.7面
  30. ^ 『聖園テレジア追悼録』聖園テレジア遺徳顕彰会、1969年、pp.420-426

参考文献

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関連項目

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