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能円

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

能円(のうえん、保延6年(1140年) - 正治元年8月24日1199年9月16日)は平安時代末期の僧侶皇后宮亮藤原顕憲藤原盛実の子)の子。母は令子内親王に仕えた下女(一説には藤原家範の娘)で、異父兄姉に平時子平時忠らがある。異母兄弟には藤原盛憲憲親経憲玄顕らがあり、息女には在子(承明門院)・信子堀川通具室)・藤原時子中山忠季室、後に近衛基通妾)[注釈 1]がある。

生涯

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異父姉の時子から目をかけられ、その養子となる。時子の夫・平清盛平氏政権を樹立していくのに従って立身し、法勝寺執行に任ぜられる。僧侶の身ではあったが藤原範兼の娘の範子と結婚し、一女・在子を儲けた。範子が高倉天皇の第四皇子尊成親王の乳母になると、宮廷にも人脈を拡大した。

しかし、寿永2年(1183年)の平家一門の都落ちに従ったことから運命が暗転する。直後に尊成親王は後鳥羽天皇として即位するが、能円は遠く西海にあり、虚しくその報を聞くのみであった。やがて元暦元年(1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、捕虜として都に送られ、裁きの上で備中国への流罪となった。

この間、都に残っていた範子は、在子を連れて土御門通親と再婚。能円は文治5年(1189年)に赦免され帰洛するが、範子は既に通親との間に定通通方らを産み、更に懐妊中という状態であった。在子は後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久6年(1196年)に皇子為仁親王を生む。為仁親王は建久9年(1198年)に土御門天皇として即位し、能円は血縁上は天皇の外祖父となったが、それに相応しい厚遇を受けることはなかった。正治元年(1199年)に死去している。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『尊卑分脈』には、在子と信子の他に時子(督局)と某(中山親平母)2名の娘が記されて共に中山忠季室と注されているが、『古今著聞集』巻第八第325話によれば、督局(督典侍)が忠季と通じて生んだ子が親平であり、誤って同一人物を別人として記載している(時子の欄には後に関白忠通の妾となったことが記されているが、忠通は能円が25歳の時に亡くなっているため、明らかに誤りである)[1]

出典

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  1. ^ 角田文衞「督典侍」『王朝の明暗 平安時代史の研究 第二冊』東京堂出版、1977年、583ー592頁。