良岑長松
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 弘仁5年(814年) |
死没 | 元慶3年11月10日(879年12月26日) |
別名 | 良松 |
官位 | 従四位上・山城権守 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 良岑氏 |
父母 | 父:良岑安世 |
兄弟 | 木蓮、長松、清風、宗貞(遍昭)、高行、遠視、晨直、晨省、晨茂、行振 |
良岑 長松(よしみね の ながまつ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は良松とも記される[1]。大納言・良岑安世の次男。官位は従四位上・山城権守。
経歴
[編集]承和5年(838年)遣唐使准判官として渡唐したが、翌承和6年(839年)の帰国時に嵐に遭い漂流し、南海の島に漂着した。同乗者の多くが命を落とす中で幸運にも生き残り、遣唐知乗船事の菅原梶成(医師)らと協力して壊れた船の廃材から船を仕立て直し、承和7年(840年)6月大隅国に帰着した[2]。同年中に従六位下から4階昇進し従五位下に叙爵された。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い、従五位上に叙せられた。のち、宮内大輔・諸陵頭を経て、文徳朝末の天安2年(858年)正月に武蔵守に転任すると、大和権守・但馬権守・河内守・山城権守と清和朝から陽成朝にかけては主に地方官を歴任した。またこの間、貞観10年(868年)正五位下、元慶元年(877年)従四位上に叙せられている。
元慶3年(879年)11月10日卒去。享年66。最終官位は散位従四位上。
人物
[編集]琴の名手で、腕前を見込まれて遣唐使に選ばれたが、他に才能は無かったという[3]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 承和元年(834年) 正月19日:遣唐准判官
- 承和年間初頭:常陸権大掾。伊予掾
- 時期不詳:従六位下
- 承和7年(840年) 日付不詳:正六位上。12月18日:従五位下
- 承和9年(842年) 11月8日:侍従
- 承和13年(846年) 正月13日:丹波介
- 承和15年(848年) 2月14日:縫殿頭
- 嘉祥3年(850年) 4月17日:従五位上
- 嘉祥4年(851年) 4月8日:次侍従
- 仁寿2年(852年) 2月15日:宮内大輔
- 仁寿3年(853年) 7月21日:諸陵頭
- 仁寿4年(854年) 2月16日:宮内大輔
- 天安2年(858年) 正月16日:武蔵守
- 貞観7年(865年) 5月25日:大和権守
- 貞観9年(867年) 正月12日:但馬権守
- 貞観10年(868年) 正月7日:正五位下
- 貞観11年(869年) 2月16日:宮内大輔
- 時期不詳:従四位下。河内守。山城権守
- 元慶元年(877年) 11月21日:従四位上
- 元慶3年(879年) 11月10日:卒去(散位従四位上)