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花房銀子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はなぶさ ぎんこ
花房 銀子
本名 藤井 マツ子 (ふじい まつこ)
生年月日 (1915-06-29) 1915年6月29日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 山口県
身長 157.6cm
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1932年 - 1942年
主な作品
時雨ひととき
十二階下の少年達
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花房 銀子(はなぶさ ぎんこ、1915年6月29日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4]。本名藤井 マツ子(ふじい まつこ)。

人物・来歴

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1915年大正4年)6月29日山口県に生まれる[1][2]

大阪に移り、大阪市立大阪高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に進学するも、同校を中途退学し、京都大丸の煙草売場に勤務していたところ、1932年(昭和7年)、当時、新興キネマ専務取締役の職にあった立花良介に見いだされ、同社に入社する[1][2]。同年6月4日に公開された清涼卓明監督の『草笛を吹きつゝ』、同年6月30日に公開された高見貞衛監督の『大空に描く』に「花房 銀子」の名でつづけて出演し、満16歳で映画界にデビューした[1][3]。当時の『日本映画俳優名鑑』の記述によれば、満19歳のころの花房は「身長五尺ニ寸、體重十二貫八百匁」とあり、これは「身長157.6センチメートル、体重48キログラム」にあたる[2]時代劇剣戟映画現代劇にと出演し、1933年(昭和8年)3月13日に公開された川手二郎監督の『時雨ひととき』、同年6月22日に公開された渡辺新太郎監督の『十二階下の少年達』等に主演した[1][2][3]

1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博トーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、花房は設立と同時に入社、同年に公開された根岸東一郎監督の『無鉄砲選手』等に出演した[3]。1936年(昭和11年)、加賀まりこの父、加賀四郎の加賀ブラザースプロダクションが製作した鈴木傳明監督の『鋪道の囁き』に出演しているが、同作は当時は公開されず、第二次世界大戦終了直後の1946年(昭和21年)6月27日に『思い出の東京』と改題されて公開されている[5]。大戦中の1942年(昭和17年)に製作・公開された長尾史録監督の『大いなる行進』以降、出演記録が見当たらない[3][4]。その後の消息は不明である。没年不詳

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」である[3][4]。1935年(昭和10年)に現代劇部門を「新興キネマ東京撮影所」に分離して以降、京都の生産拠点を「新興キネマ京都撮影所」と改称した[3][4]

製作 新興キネマ
製作 新興キネマ京都撮影所

マキノトーキー製作所

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特筆以外すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である[3][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e 花房銀子jlogos.com, エア、2012年12月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e 映画世界社[1934], p.35.
  3. ^ a b c d e f g h i j 花房銀子日本映画データベース、2012年12月11日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 花房銀子、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月11日閲覧。
  5. ^ 思い出の東京 - KINENOTE、2012年12月11日閲覧。
  6. ^ a b c d e 花房銀子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月11日閲覧。
  7. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画=邦画篇マツダ映画社、2012年12月11日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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