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荘厳寺 (土岐市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荘厳寺
所在地 岐阜県土岐市鶴里町柿野2245-1
位置 北緯35度16分14秒 東経137度13分2秒 / 北緯35.27056度 東経137.21722度 / 35.27056; 137.21722座標: 北緯35度16分14秒 東経137度13分2秒 / 北緯35.27056度 東経137.21722度 / 35.27056; 137.21722
山号 寶樹山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建年 天正9年(1581年)
開基 長道大安
中興年 明暦3年(1657年)
中興 快岳中慶
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荘厳寺(しょうごんじ)は、岐阜県土岐市鶴里町柿野にある曹洞宗の寺院。山号は寶樹山。

歴史

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天正9年(1581年)、越後春日山 林泉寺長道大安が来錫し、餅ヶ洞に雲龍山 大安寺を建立した。

明暦3年(1657年)5月に四世となった快岳中慶は、その後現在地に伽藍を移し、神請山 荘厳寺に改号し、本尊を安置し、十王堂・観音堂・薬師堂・庚申堂・法華供養塔・名号碑・観音堂を建立した。

享保16年(1731年)3月に六世となった牧翁傳中は、庫裏と土蔵を建築した。

元文5年(1740年)4月、八世の密峰察穏が本堂を再建した。

天明6年(1786年)1月、九世の霊凰金翎[1]の代に、名古屋本町の鈴木良水翁が、125両と畳・建具等を寄進した。

また同年に、山城国石清水八幡宮の築山将監の母の智照尼が霊凰金翎の尊像を寄進した。

天明7年(1787年)、庫裏が落成した。

寛政元年(1789年)4月、十一世の衝天補道は、下総国にある関三刹總寧寺へ転住した。

寛政4年(1792年)12月、寺格が上がり、法地[2]となり、霊凰金翎が「法地開山」となった。

寛政5年(1793年)2月、林弥次郎が、大般若経600巻を寄贈し、3月には犬山藩三上利助が大梵鐘を寄贈し、8月には越前国敦賀郡永建寺檀徒の髙嶋屋久兵衛が本尊の薬師如来に金燈を寄贈した。

寛政8年(1796年)9月、十二世の教外黙宣は、近江国の長福寺に転住した。

文化5年(1808年)5月、十四世の良道祖玄の代に、尾張との国境にある雨沢集落について、尾張春日井郡上品野村の祥雲寺との間に争論がおきた。

また同年12月17日、火災によって伽藍が焼失した。

文化10年(1813年)10月、十五世の佛仙玄了の代に伽藍の再興が成った。

文政10年(1827年)4月、十七世の梅峯義宗は、羽前国向川寺へ転住した。

天保15年(1844年)、十八世の丹岡生嶽も、羽前国の向川寺へ転住した。

嘉永2年(1849年)2月16日、十九世の曹屋義俊の代に阿羅漢弥勒菩薩像を安置した。

慶応4年/明治元年(1868年)、二十世の禅源道悦は、神仏判然令により、観音堂と十王堂を寺内に移転した。

明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震で諸堂が大破した。

明治30年(1897年)、二十一世の大礎彦勇が、位牌堂を建立。明治45年(1912年)、石段と土蔵を建立した。

明治45年(1913年)、石段と土蔵を建立した。

大正3年(1914年)、二十二世の温良彦隆は、横浜市陽光院へ転住した。

昭和26年(1951年)4月、二十四世の楚圭倫正は、太平洋戦争で供出したため失われていた梵鐘を再鋳した。

寺宝

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  • 曹海禅師の肖像(越後国新発田藩主の溝口出雲守筆)
  • 踊布袋の図(狩野探幽筆)
  • 達磨の図(狩野探幽筆)
  • 息(毛利甲斐守[3]から霊凰金翎和尚に寄贈のもの)
  • 阿蘭陀焼鉢(同上)
  • 金蒔絵香炉(同上)
  • 絨氈2枚(同上)
  • 一切経全部

境内

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本堂・開山堂・禅堂・庫裏・土蔵がある。

関連リンク

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参考文献

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  • 『土岐市史 2 (江戸時代~幕末)』 第十五編 江戸時代の宗教 第四章 徳川幕府の神道政策 10 神社・寺院調 p374~p386 土岐市史編纂委員会 1971年

脚注

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  1. ^ 尾張藩の大澤弥左衛門の子。名古屋善篤寺にて得度を受けた。近江国長福寺羽前国東林寺羽後国蚶満寺越中国光禅寺山城国神応寺尾張国雲興寺越前国永建寺長門国功山寺に歴住し、帰途に下関客舎にて遷化した。
  2. ^ 曹洞宗における寺格は、大本山・格地・法地・准法地という四段階に分けられている。なお、大本山を除いた、三段階の寺格は、申請により昇降することが可能である。
  3. ^ 長門国長府藩