菅沼定昭
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菅沼定昭像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永2年(1625年) |
死没 | 正保4年9月21日(1647年10月18日) |
別名 | 左近(通称) |
戒名 | 浄寂院殿傑叢全英大居士 |
墓所 | 京都府亀岡市西堅町の宗堅寺 |
官位 | 従五位下左近将監 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 丹波亀山藩主 |
氏族 | 菅沼氏 |
父母 | 父:菅沼定芳、母:不詳 |
兄弟 | 定昭、定実、定房、定方、定賞、定之、小笠原長矩正室ら |
菅沼 定昭(すがぬま さだあきら)は、丹波国亀山藩の第2代藩主。
生涯
[編集]寛永2年(1625年)、丹波亀山藩の初代藩主(当時は近江膳所藩主)・菅沼定芳の長男として膳所で生まれる。嫡出の姉2人とは違い、庶出であった。寛永17年(1640年)、従五位下・左近将監に叙位・任官される。
寛永20年(1643年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、異母弟の定実へ2000石、定賞へ1100石の知行地をそれぞれ分与し、4万1100石から3万8000石にまで直轄領が減った。
正保4年(1647年)9月21日、丹波亀山にて死去した。享年23。正室はまだ居なかった時期での不幸であったらしい。側妾も確認されておらず、嗣子もないために無嗣改易となった。翌年閏正月に弟の定実に1万石が与えられ、名跡相続は許された。