コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平信正 (丹波亀山藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信正
松平信正
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永5年4月29日1852年6月16日
死没 明治42年(1909年10月28日
戒名 恭徳院殿弘誉昌雲龍峰大居士
墓所 京都府亀岡市北古世町の光忠寺
官位 従五位下図書頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
丹波亀山藩
氏族 形原松平家
父母 父:松平信豪、母:不詳
養父:松平信義
兄弟 松平信進正室、貞鏡院信敏信正牧野康哉正室ら
正室:西尾忠受の娘・
継室:宗義和の娘・植子
信興土御門晴行
テンプレートを表示

松平 信正(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代後期の大名明治時代日本政治家華族。爵位は子爵形原松平家18代当主で丹波国亀山藩の第8代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、貴族院子爵議員などを歴任。

略歴

[編集]

嘉永5年(1852年)4月29日、第6代藩主・松平信豪の七男として誕生した。はじめ家督は兄の信敏が継ぐ予定だったが、信敏が慶応元年(1865年)に死去したため、信正が第7代藩主・松平信義の養子となって、慶応2年(1866年)に家督を継いだ。官位従五位下図書頭

幕末期には佐幕派だったが王政復古後、旧幕府勢力が朝敵となると見限り、東征軍山陰道鎮撫総督西園寺公望に帰順して以降、官軍に参加した[1][2]明治2年(1869年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、伊勢亀山藩との混同を避けるために亀山を亀岡と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県知藩事を免官される。

明治12年(1879年)に大蔵省御用掛、明治14年(1881年)に四等検査官、明治22年(1889年)に帝室制度取調掛、明治23年(1890年)に元老院書記官となった。また、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し[3]、明治23年(1890年)7月10日から明治30年(1897年)7月9日まで貴族院子爵議員を務めている[4]

明治42年(1909年)10月28日に死去した。享年58。

系譜

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 松平 信正」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%20%E4%BF%A1%E6%AD%A3コトバンクより2022年11月8日閲覧 
  2. ^ 松平信正」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E6%AD%A3コトバンクより2022年11月8日閲覧 
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』56頁。

参考文献

[編集]
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
亀岡松平家初代
1884年 - 1909年
次代
松平信興