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松平親盛

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松平親盛
松平親盛像(宝泉院蔵)
時代 戦国時代
生誕 文亀3年(1503年)?
死没 享禄3年10月6日[要出典]1530年10月26日
別名 通称:三郎次郎[1]または三郎四郎[要出典]
墓所 愛知県安城市福釜町の松平墓地
官位 右京亮(右京進)[要出典]
主君 松平清康
氏族 福釜松平家
父母 父:松平長親、母:天野某(弾正)娘[1]
兄弟 信忠親盛信定義春、阿部忠親、利長
親次[1]
養子:盛次
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福釜松平家三代の墓(右から初代親盛、2代親次、3代親俊)

松平 親盛(まつだいら ちかもり)は、戦国時代武将。三河松平氏の一族で、三河国碧海郡福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を本拠とする福釜松平家の祖。系図によれば松平長親の次男[1]。三郎次郎[1]右京亮[1]と称した。

生涯

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寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)や『三河物語』などによれば、松平長親の次男[1]。長親が庶子に所領を分与した際に、福釜と東端(安城市東端町など)を与えられ、福釜城を居城とした[1][2]。『寛政譜』によれば、天野源兵衛忠俊が附属されたという[1][注釈 1]

永正12年(1515年)[6]福釜村に宝泉院(浄土宗)[注釈 2]を創建[1][6]。同寺の開基とされる[1]

『三河物語』によれば、甥にあたる松平清康(兄・信忠の子)が東三河を平定する際、熊谷氏の居城・宇利城新城市中宇利)の大手門に10数名で突撃し討死した[7]。清康は親盛のこの死を信定の責任とし激昂したという[8]。なお、『寛政譜』では親盛の死去は某年とし[1]、死因については触れていない[1]。『寛政譜』などでは宇利城攻めで戦死した人物は息子の親次としている[9]#親盛死没の諸説参照)。

『寛政譜』によれば宝泉院に葬られ、4代康親までは同寺を葬地としたという[1]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 3]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[6][注釈 4]。宝泉院には親盛から2代親次・3代松平親俊までの肖像画があり、安城市指定の文化財となっている(指定名は「絹本著色 福釜松平三代像」)[11]

親盛死没の諸説

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『三河物語』には清康二十歳の頃に尾張国岩崎(日進市岩崎)・品野(瀬戸市品野)の両郷を攻め、続いて東三河の宇利の熊谷氏を討ったとし、その宇利城の大手攻めにて一歩も引かなかった親盛は、多くの傷を被って主従12-3人と共に討死したと記す。清康は永正8年(1511年)生まれであるから、この戦いによる親盛の死は享禄3年(1530年)頃と推定される[12]

一方、『朝野旧聞裒藁』では『西蓮寺系図附録』を根拠に、この戦いで戦死したのは親盛嫡子の親次としている。『西蓮寺系図附録』には松平親盛の享禄3年11月の証文が所載されているため、親盛の生存が窺われるからである。ただし、松平氏の研究者である平野明夫は『朝野旧聞裒藁』は宇利城攻めを享禄2年としているため、整合性を考えれば宇利城攻めを享禄3年発生の出来事と仮定する[13]

この件について平野明夫は、この親盛証文について紙質・字体に疑問点が多いとする、安城古文書研究会編 『西蓮寺文書』(安城市教育委員会、1991年)の見解を挙げ、むしろこの時の親次の戦死を想定するならば、享年28では文亀3年(1503年)生まれとなり、延徳2年(1490年)生まれの兄・松平信忠との年齢差的(14歳差)に疑問を示している。平野は宇利城での戦死はやはり親盛であり、享年は28であったと結論付けている。

系譜

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『寛政譜』によれば、松平長親の二男で、母は天野弾正某の娘とある[1]

『寛政譜』では実子として松平親次(三郎次郎、右京亮)を載せる[1]。上述の通り『寛政譜』では宇利城で戦死した人物を親次(28歳没)としており、これに従えば親次は文亀3年(1503年)生まれ・享禄3年(1530年)没となる。『安城市史』では親次を大永元年(1521年)生まれ・天正3年(1575年)没とする[14]

『寛政譜』によれば、親盛は親次の三男である盛次(金兵衛)を養子に迎えている[10]。盛次は一時出家したがのちに還俗したといい、親重(金三郎、金兵衛)という子があることが記されている[10]

松平家庶流の一つ・西福釜松平家は松平親忠の四男(親盛の叔父)・松平親光(甚三郎、刑部丞)を祖とし、福釜のうち西端など5か村を領したと称する家であるが、この家の伝える事績には福釜松平家との混同があると『寛永譜』の按文で指摘されている(たとえば親光が宇利城攻めで戦死しているなど)[15]。西福釜松平家の系譜の中には、福釜松平家の親盛の末子「松平甚三郎親長」が家祖であるとするものがあるという[15]西福釜松平家参照)。

安城市福釜町蔵前の松林山西岸寺(浄土真宗大谷派)は延徳元年(1489年)創建というが[6]、寺伝によればこの寺の開基とされる「松平玄番〔ママ〕」は親盛の庶子である[14]。玄番が乳母に伴われて寺に住み込み、のちに親盛が寺を「西岸寺」と命名して玄番を開基住職とするよう命じたという[14]。同寺の過去帳に、開基「清秀院殿釈了玄」、俗名「松平玄番」、天文16年(1547年)11月26日とあるという[14]

脚注

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注釈

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  1. ^ 天野家の系譜は『寛政譜』巻第八百八十三にあるが、所伝に若干の混乱がある[3]。『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)によれば天野忠俊は松平親光西福釜松平家の祖)に従って宇利城で討死したという[3]。天野忠俊の子の忠次(彦右衛門)は松平親光の嗣子「玄蕃助」さらにその子「左馬助」に仕え、天野忠次の子・正忠(三七郎)もはじめ「松平左馬助」に仕えていたが、天正3年(1575年)に長篠城の守備に当たっていた松平左馬助が病により離脱したために、天野正忠が家康の命によりその役を代わって務め、のちに「松平三郎次郎」に従ったという[4]。天野忠俊が属したのは「貞享の呈譜」には親盛とあり、『寛政譜』編纂時に天野家庶流からの呈譜では親盛としていたが、「寛永福釜の松平の譜ならびに官庫の記録」によって『寛政譜』では天野忠俊は親盛・親次に属したと修正されている[3]。『寛永譜』は、天野忠次・正忠が仕えた「松平玄蕃助」「松平左馬助」については西福釜家の系譜に見られないとしつつ『寛政系図』を踏襲した記載が行われている[5]。なお、福釜家では代々が「三郎次郎」を称し、松平親俊(親盛の孫)は「左馬助」とも称した。
  2. ^ 正式名称は清流山宝泉院良心寺[6]
  3. ^ 『寛政譜』によれば康盛は江戸牛込の光照寺に葬られた[10]
  4. ^ 初代親盛から4代康親までの墓石は、明治時代に福釜村長の杉浦源右衛門によって建立されたという[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19
  2. ^ 大久保忠教 原著・小林賢章 訳『三河物語(上)』〈教育新書 - 原本現代訳11〉、教育社、1987年、66頁
  3. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻八百八十三「天野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.626
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻八百八十三「天野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』pp.626-627
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻八百八十三「天野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.627
  6. ^ a b c d e f g 安城歴史の散歩道 福釜松平と箕輪・高棚の社寺めぐり”. 安城市教育委員会. 2022年9月19日閲覧。
  7. ^ 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)193頁
  8. ^ 大久保忠教 原著・小林賢章 訳『三河物語(上)』(〈教育新書 - 原本現代訳11〉、教育社、1987年)81-82頁
  9. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.19-20
  10. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.20
  11. ^ 絹本著色 福釜松平三代像”. 安城市文化財図録. 安城市. 2022年9月17日閲覧。
  12. ^ 平野明夫「享禄3年尾張出兵・宇利城攻め・吉田城攻め…」(『三河松平一族』 新人物往来社、 2002年)230頁
  13. ^ 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)193-194頁
  14. ^ a b c d e 安城市図書情報館(回答) (2020年5月26日). “松平(三郎次郎)親盛の息子は親次だけか?…”. レファレンス協同データベース. 2022年9月19日閲覧。
  15. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻四十四「松平」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226

参考文献

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外部リンク

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