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松平信光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 信光
松平信光像(萬松寺蔵)
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 応永11年(1404年)?
死没 長享2年7月22日1488年8月29日)?
改名 信光(のぶみつ)→
信光(しんこう、法名)[1]
別名 左京亮、和泉入道
戒名 崇岳院殿月堂信光
墓所 愛知県岡崎市岩津町信光明寺
愛知県岡崎市鴨田町大樹寺
官位 従五位下[2]和泉守
幕府 室町幕府
主君 伊勢貞親
氏族 松平氏
父母 父:松平泰親
母:松平信重
兄弟 信広信光益親家久家弘久親
正室:一色宗義娘・真浄院殿
牧原又兵衛娘
守家親忠昌龍与副光重光英
忠景光親家勝親正親則
戸田宗光
特記
事項
『松平氏由緒書』は父を松平親氏とする
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大樹寺(愛知県岡崎市)にある松平八代墓の信光の墓
(2019年11月)
信光明寺(愛知県岡崎市)にある松平信光の墓(2020年12月)

松平 信光(まつだいら のぶみつ/しんこう[1])は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将三河国松平氏3代当主。岩津松平家の祖。

出自

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信光は『朝野旧聞裒藁』や江戸期系譜[3]では2代当主・松平泰親の子とされるが、『松平氏由緒書』[4]では初代当主・松平親氏の子であるとする。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。

生涯

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松平氏当主として史料で実在が確認できるのは信光からである。信光以前の系譜は定かではない。

信光は三河の土豪かつ被官で、岩津城(愛知県岡崎市岩津町)を拠点とする岩津松平家の祖となり、応仁の乱頃には室町幕府政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。

長禄2年(1458年)、駿河国守護今川氏の分家関口氏(今川関口家)の関口満興の岩略寺城(愛知県豊川市長沢町)を攻め、落城後に十一男の親則を城主として入れた。以降は、岩略寺城に近く満興の弟・長沢直幸の居城だった北側の長沢城(愛知県豊川市長沢町)を居城と定めたため、氏族は長沢松平氏とも言われ、以降の岩略城は長沢山城とも呼ばれている。寛正元年(1461年)には保久城(愛知県岡崎市保久町)の山下庄左衛門を滅ぼす[5][6]

寛正6年(1465年)5月、三河守護・細川成之の指示により、貞親の被官として室町幕府8代将軍足利義政の命により額田郡一揆を鎮定している(『親元日記』)。その恩賞として、一揆勢が有していた深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)などの所領を幕府から与えられた[7]

信光は、同じく伊勢氏の被官であり、東三河の有力武将である戸田宗光に娘を嫁がせた他、応仁の乱では東軍に属して三河守護・細川成之と共に、三河復権を狙う一色氏を追放した[8]。また、西軍方である畠山氏一門の畠山加賀守が拠る安祥城(愛知県安城市)を奇襲しこれを奪い、五男松平光重岡崎城主・西郷頼嗣の娘婿とし、岡崎城も勢力下とした。

戦国時代に入ると安祥に進出するなど西三河を中心に勢力基盤を広げ、戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。異常に子が多く、『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると48人の子供がいたという[9][10]。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家深溝松平家)、能見松平家丸根松平家牧内松平家長沢松平家が各地に置かれた[8]

滝村萬松寺や岩津信光明寺、岩津妙心寺(明治時代京都市中京区円福寺町の円福寺と寺号交換)などを建立し、岩津城で逝去した。逝去により家督は三男の親忠が継いだ。

生没年について

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信光の生没年については異説・諸説がある。

  1. 応永20年(1413年) - 長享2年7月22日1488年8月29日) - 享年76説
  2. 応永11年(1404年) - 長享2年7月22日1488年8月29日) - 享年85説[2]
  3. 応永8年(1401年) - 長享3年7月23日1489年8月30日) - 享年89説

ただし、文亀元年(1501年)12月26日の大樹寺勤行式定に月堂(信光)の月忌が22日であると記されているので、命日(月命日)が22日であることは確実である。なお『朝野旧聞裒藁』が引用する資料では、『本多氏蔵御系図』が「長享2年7月3日」、龍海院過去帳が「長享2年2月22日」と記しているのを除き、すべて「長享2年7月22日」と記している[11]

脚注

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  1. ^ a b 平野 2010, p. 75-76.
  2. ^ a b 『朝野旧聞裒藁』「信光君御事蹟第一」「信光君御事蹟第二」による。
  3. ^ 寛政重修諸家譜巻第ニ「清和源氏義家流 松平諸流累圖」
  4. ^ 松平太郎左衛門家の家老だった神谷家に伝わる史料。
  5. ^ 保久城址 - ウェイバックマシン(2015年9月24日アーカイブ分)、岡崎教育ネットワーク(参考文献:『中世城館跡調査報告II』、『額田町史』132-133頁)
  6. ^ 額田町のあゆみ(歴史年表) - ウェイバックマシン(2015年4月17日アーカイブ分)、岡崎教育ネットワーク
  7. ^ 『三河松平一族』、117-122頁「信光期の松平氏」
  8. ^ a b 第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景」『岡崎市歴史的風致維持向上計画』岡崎市、2024年3月、40頁https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1169/p020134_d/fil/03dai1sho.pdf 
  9. ^ 『徳川実紀. 第壹編』「東照宮御實紀卷一」、20頁
  10. ^ 『朝野旧聞裒藁』第一輯、200頁
  11. ^ 『朝野旧聞裒藁』第一輯、199-200頁

参考文献

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  • 林述斎 等 編『朝野舊聞裒藁』 第一輯、東洋書籍出版協會、1923年2月15日。 (『朝野旧聞裒藁 第1輯』 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史2 中世』新編岡崎市史編さん委員会、1989年3月31日。doi:10.11501/9540743 
  • 平野明夫『三河 松平一族―徳川将軍家のルーツ』洋泉社〈MC新書045〉、2010年5月。ISBN 978-4-86248-553-3 

関連項目

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外部リンク

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