薄田七郎
薄田 七郎(うすだ しちろう、1898年〈明治31年〉1月12日 - 1983年〈昭和58年〉10月22日)は、日本の医師、厚生技官、病理学者。医学博士。台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授。
略歴
[編集]新潟県中蒲原郡木戸村大字鴉俣(現 新潟市東区山木戸)の医師・薄田敬勝の長男として出生[1][注 1][注 2]。
1915年(大正4年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業[注 3]、1923年(大正12年)4月に東京帝国大学医学部医学科を卒業[4]。
東京帝国大学医学部病理学教室に入室[4]、1925年(大正14年)1月に泉橋慈善病院内科医員に就任[4]、1926年(大正15年)4月に同病院病理解剖科医員に就任[注 4]、1932年(昭和7年)11月に東京帝国大学から医学博士号を取得[7]。
1937年(昭和12年)2月に台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座(担任:和気巌教授)助教授に就任[8][注 5]、3月に同大学に着任[10]、1945年(昭和20年)7月に台北帝国大学医学部病理学教室病理学第一講座第2代教授に就任[4][11]。
太平洋戦争後、国立台湾大学に留用され[4]、1945年(昭和20年)12月に同大学医学院病理学科教授に就任[4]、1946年(昭和21年)7月に留用を解除され[12]、同大学を退職、10月に日本に帰国[4]。
1947年(昭和22年)5月に帝国女子医学薬学専門学校教授に就任[4]、11月に東邦女子医学薬学専門学校教授に就任[4]。
1949年(昭和24年)3月に厚生技官に任命され、新潟県衛生試験所[注 6]病理部長に就任[7][注 7]、1961年(昭和36年)4月にガンセンター新潟病院研究部長に就任[4][注 7]、1971年(昭和46年)4月に新潟医療技術専門学校非常勤講師に就任[4]。
病気で入院中、1983年(昭和58年)10月22日午後6時10分に死去、10月25日に新潟県新潟市西堀通5番町(現 新潟市中央区西堀通5番町)の光林寺で告別式が執り行われた[14]。
栄典
[編集]親族
[編集]- 小川種太郎 - 岳父、味噌醤油醸造業、元新潟興業貯蓄銀行監査役、元新潟汽船取締役、元新潟市会議員。
- 三井田彦司郎 - 義兄、妻の長姉の夫、海軍機関大佐、元湯浅蓄電池製造常務取締役・技術顧問、元日本蓄電池製造相談役。
著作物
[編集]校訂書
[編集]- 『簡明小病理解剖學 各論 上卷』講医会編集部[編]、富倉書店、1935年。
- 『簡明小病理解剖學 各論 下卷』講医会編集部[編]、富倉書店、1941年。
論文
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 薄田七郎の曽祖父の薄田順鼎も越後国蒲原郡鴉俣村(現 新潟市東区山木戸)の医師で、私塾を開いて近隣の子弟の教育を行っていた[2][3]。
- ^ 薄田七郎の祖父の薄田中庸も医師で、父の薄田順鼎の私塾を引き継ぎ、1874年(明治7年)9月にその私塾を基に創立された木戸小学校の初代校長となった。
- ^ 1916年(大正5年)9月に第二高等学校に入学。
- ^ 1926年(大正15年)10月から1930年(昭和5年)3月まで日本医科大学解剖学教室教授を兼任[5]、1936年(昭和11年)4月から1937年(昭和12年)2月まで昭和医学専門学校病理学教室教授を兼任[6]。
- ^ 1937年(昭和12年)4月から台北帝国大学附属医学専門部教授を兼任[9]。
- ^ 1953年(昭和28年)5月に新潟県衛生研究所、1985年(昭和60年)4月に新潟県公害研究所と統合して新潟県衛生公害研究所、1997年(平成9年)4月に新潟県保健環境科学研究所に改称[13]。
- ^ a b 1955年(昭和30年)から新潟大学医学部病理学教室講師を兼任[7]。
出典
[編集]- ^ 『新潟縣肖像録』297頁。
- ^ 『新潟縣總攬』788頁。『いしぶみ越佐の先賢 下越編』73-75頁。『新潟市史 資料編3 近世II』665頁。
- ^ 「石山村誌」22頁。『中蒲原郡誌 下編』624頁。『中蒲原郡誌 新潟市編』252頁。『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈下編〉』950頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』91頁。
- ^ a b 教室の沿革(教室の設立、歴史、変遷など) - 日本医科大学大学院医学研究科解剖学・神経生物学分野
- ^ 『昭和医学会雑誌』第18巻第3号、214頁。
- ^ a b c 『日本醫籍錄』第26版。
- ^ 「昭和十二年二月六日」「敍任及辭令」『府報』第2902号、15頁、台湾総督府、1937年2月9日。
- ^ 「昭和十二年四月十三日」「敍任及辭令」『府報』第2954号、71頁、台湾総督府、1937年4月14日。
- ^ 「官吏著任」「官廳事項」「彙報」『府報』第2923号、10頁、台湾総督府、1937年3月7日。
- ^ 「昭和二十年七月十日」「敍任及辭令」『臺灣總督府 官報』第993号、20頁、台湾総督府、1945年7月16日。
- ^ 『日本台湾学会報』第16号、103頁。
- ^ 沿革 - 福祉保健部 保健環境科学研究所 - 新潟県
- ^ 『新潟日報』1983年10月24日付朝刊、3面。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第13463号、13頁、大蔵省印刷局、1971年11月5日。
参考文献
[編集]- 「薄田七郎」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』91頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
- 「薄田七郎」「新潟縣」8頁、『日本醫籍錄』第26版、医学公論社[編]、医学公論社、1958年。
- 「夫七郎儀」『新潟日報』1983年10月24日付朝刊、3面、新潟日報社、1983年。
- 「薄田敬勝君 薄田七郞君」『新潟縣肖像録』297頁、富谷益蔵[編]、博進社、1924年。
- 「薄田敬勝」『新潟縣總攬』787-788頁、富樫悌三[著]、新潟社、1916年。
- 「薄田順鼎」「石山村誌」21-22頁、『中蒲原郡誌 下編』新潟県中蒲原郡役所[編]、新潟県中蒲原郡役所、1916年。
- 「薄田順鼎」「石山村誌」『中蒲原郡誌 下編』623-624頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、名著出版、1973年。
- 「薄田順鼎」「石山村誌」『中蒲原郡誌 新潟市編』251-252頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、臨川書店、1986年。
- 「薄田順鼎」「石山村誌」『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈下編〉』949-950頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、千秋社、2000年。
- 「順鼎薄田君寿蔵碑」『いしぶみ越佐の先賢 下越編』73-75頁、石川新一郎[著]、いしぶみ越佐の先賢下越編刊行会、1999年。
- 『新潟市史 資料編3 近世II』新潟市史編さん近世史部会[編]、新潟市、1992年。
- 「昭和医科大学基礎、臨床、各教室の沿革」『昭和医学会雑誌』第18巻第3号、214-260頁、昭和大学・昭和医学会、1958年。
- 「国立台湾大学における日本人留用政策 (PDF) 」『日本台湾学会報』第16号、84-106頁、井上弘樹[著]、日本台湾学会、2014年。