コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤井重郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤井 重郎
生誕 1883年7月18日
福島県若松市天寧寺町
死没 (1937-08-21) 1937年8月21日(54歳没)
熱河省境黒達営子
所属組織  大日本帝国陸軍 満州国軍
軍歴 1904 - 1930(日本陸軍)
1932 - 1937(満州国軍)
最終階級 大日本帝国陸軍少将
満州国陸軍中将
除隊後 里見日本文化学研究所全国特派員
国体主義同盟理事長
テンプレートを表示

藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年明治16年)7月18日 - 1937年昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人歩兵大佐予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将満州国陸軍中将

経歴

[編集]

福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である[1]。藤井は創設以来の稚松会会員であった[2]会津中学から仙台陸軍幼年学校陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。

陸軍将校

歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。戦後は歩兵第65連隊大隊副官[2]、同連隊および歩兵第4連隊の各中隊長、歩兵第61連隊大隊長などを務める。1925年大正14年)12月、歩兵第44連隊中佐松本連隊区司令部員を歴任。1930年(昭和5年)8月、大佐へ進級したが、諭旨によって予備役編入となる。

満州国軍

石原莞爾土肥原賢二の招き[3]満州に渡った藤井は靖安遊撃隊の副司令に就任し、1932年(昭和7年)に実施された遊撃隊の軍政部移管に伴い、改称された靖安軍司令官となる[4]。靖安軍は匪賊討伐に勇名があった[* 1]。また満州国の官吏養成機関である大同学院の学監を務め[* 2]、1期生97名を卒業させた[5]。講師を務めたのは星野直樹平貞蔵伊藤整一らである[5]1937年(昭和8年)、日中戦争の勃発に伴い、藤井は熱河支隊長[1]として出動し、敵情視察中に狙撃を受け戦死[3]した。日本陸軍、満州国陸軍においてそれぞれ一階級特進している。

栄典

[編集]

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ ただし、靖安遊撃隊には越軌な行動を取る者もおり、満州国軍への移管に際して整理が行われた。この際美崎丈平上校(歩兵第一団長)の藤井に対する補佐が功を奏している。(『満州国軍』)
  2. ^ 『日本陸海軍総合事典』では遊撃隊副司令、靖安軍司令官、大同学院学監の順に就任しているが、『満州建設烈士遺芳録』では大同学院学監から靖安遊撃隊副司令に就任したとあり、満州国陸軍少将進級時期も異なっている。
出典
  1. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』「主要陸海軍人の履歴 藤井重郎」
  2. ^ a b 『稚松会会誌』(明治45年3月発行)
  3. ^ a b 『満州建設烈士遺芳録』画像199枚目
  4. ^ 『満州国軍』44頁
  5. ^ a b 『会津会雑誌第41号』「藤井重郎 満州大堂学院の成績」
  6. ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。

参考文献

[編集]
  • 会津会『会津会雑誌第41号』「藤井重郎 満州大堂学院の成績」
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会
  • 小澤親光『秘史 満州国軍』柏書房、1976年。
  • 満州建設烈士遺芳録』満州日日新聞東京支社出版部、1942年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]