藤井重郎
藤井 重郎 | |
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生誕 |
1883年7月18日 福島県若松市天寧寺町 |
死没 |
1937年8月21日(54歳没) 熱河省境黒達営子 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 満州国軍 |
軍歴 |
1904 - 1930(日本陸軍) 1932 - 1937(満州国軍) |
最終階級 |
大日本帝国陸軍少将 満州国陸軍中将 |
除隊後 |
里見日本文化学研究所全国特派員 国体主義同盟理事長 |
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。
経歴
[編集]福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である[1]。藤井は創設以来の稚松会会員であった[2]。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。
- 陸軍将校
歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。戦後は歩兵第65連隊大隊副官[2]、同連隊および歩兵第4連隊の各中隊長、歩兵第61連隊大隊長などを務める。1925年(大正14年)12月、歩兵第44連隊附中佐、松本連隊区司令部員を歴任。1930年(昭和5年)8月、大佐へ進級したが、諭旨によって予備役編入となる。
- 満州国軍
石原莞爾と土肥原賢二の招き[3]で満州に渡った藤井は靖安遊撃隊の副司令に就任し、1932年(昭和7年)に実施された遊撃隊の軍政部移管に伴い、改称された靖安軍の司令官となる[4]。靖安軍は匪賊討伐に勇名があった[* 1]。また満州国の官吏養成機関である大同学院の学監を務め[* 2]、1期生97名を卒業させた[5]。講師を務めたのは星野直樹、平貞蔵、伊藤整一らである[5]。1937年(昭和8年)、日中戦争の勃発に伴い、藤井は熱河支隊長[1]として出動し、敵情視察中に狙撃を受け戦死[3]した。日本陸軍、満州国陸軍においてそれぞれ一階級特進している。
栄典
[編集]脚注
[編集]- 注釈
- ^ ただし、靖安遊撃隊には越軌な行動を取る者もおり、満州国軍への移管に際して整理が行われた。この際美崎丈平上校(歩兵第一団長)の藤井に対する補佐が功を奏している。(『満州国軍』)
- ^ 『日本陸海軍総合事典』では遊撃隊副司令、靖安軍司令官、大同学院学監の順に就任しているが、『満州建設烈士遺芳録』では大同学院学監から靖安遊撃隊副司令に就任したとあり、満州国陸軍少将進級時期も異なっている。
- 出典
参考文献
[編集]- 会津会『会津会雑誌第41号』「藤井重郎 満州大堂学院の成績」
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会
- 小澤親光『秘史 満州国軍』柏書房、1976年。
- 『満州建設烈士遺芳録』満州日日新聞東京支社出版部、1942年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 陸軍少佐田中秀志外九名叙位の件(アジア歴史資料センター Ref.A12090569300、叙位裁可書・昭和十九年・叙位巻五十・臨時叙位)
- 満州国官吏の件(アジア歴史資料センター Ref.C01002940000、昭和8年 「満密大日記 24冊の内其21」)