コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原光継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原光継
生誕 不明
死没 延元3年/暦応元年(1338年2月28日
官位 従二位権中納言
主君 後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇
氏族 葉室家庶流堀川家
父母 父:藤原光泰
テンプレートを表示

藤原 光継(ふじわら の みつつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公家藤原光泰の次男。葉室家庶流堀川家。葉室光俊の曾孫にあたる。官位従二位権中納言信濃守

経歴

[編集]

蔵人頭兼宮内卿を経て、嘉暦3年(1328年9月23日参議に任じられる。後醍醐天皇隠岐島配流後は光厳天皇に仕え、再び後醍醐天皇に仕えた。元弘3年(1333年雑訴決断所の構成員となる。建武2年(1335年)8月、中先代の乱鎮圧後の信濃国国司(信濃守)として下向。鎌倉で朝廷に反旗を翻した足利尊氏に対し、東海道東山道両道に約1万騎の大軍が発せられると2000騎を率いて合流し大井城を攻め落とした。

後醍醐天皇の京都逐電に伴い解官。翌3年(1336年)正月には後醍醐の近江国坂本の陣に参陣し、延元元年(1336年)5月25日、従二位権中納言に昇進、その後、二条師基に従い河内国に下向した(『南朝編年紀略』)。延元3年/暦応元年(1338年2月28日、南都合戦で北畠顕家の軍勢の一員として戦い敗死した。

参考文献

[編集]
  • 安田元久 編『鎌倉室町人名事典』新人物往来社、1990年。
  • 吉井功児 著『建武政権期の国司と守護』近代文芸社、1993年。

関連項目

[編集]