藤原千古
藤原 千古(ふじわら の ちふる/ちこ、生没年不詳)は、平安時代の右大臣藤原実資の娘。母親は不明であるが、義弟である源頼定の乳母の娘と言われている[注釈 1]。
生涯
[編集]生年は不詳であるが、万寿元年12月13日(1025年1月15日)に当時の貴族女性の成人の儀式に相当する着裳が行われており、当時の着裳が14歳前後数年のうちに行われていたことから、寛弘8年(1011年)頃の出生と推定されている。
父親の実資は天徳元年(957年)生まれであることから、50歳過ぎにして漸く出来た娘[注釈 2]ということになり、非常にこれを溺愛した。『大鏡』によれば、彼女に「かぐや姫」と愛称を付けたされる。また、寛仁3年12月9日(1020年1月6日)には処分状を作成して、小野宮家に伝わる荘園などの財産の殆どを千古に継承させ、「道俗子等一切不可口入」と宣言して、養嗣子の資平(甥)や僧侶にしていた庶子良円にはほとんど財産を残さなかった[注釈 3]。
実資は千古を天皇の妃にすることを望んだが、表面上は実資に敬意を払いつつもその政治力の拡大を恐れる藤原道長・頼通父子の前に入内を阻まれた。このため、具平親王の子である源師房を婿にしようとするが、小野宮家と村上源氏の婚姻による政治力の拡大を警戒した道長が家族の反対を押し切る形で娘の藤原尊子の婿にしてしまう[2]。その後、実資は正妻を亡くしていた道長の子・長家の後妻にしようと図り、道長の了承を得るが長家がこれを拒絶したため、縁談は破談となった[3][注釈 4]。その後、道長の孫である藤原兼頼(頼宗の子)の妻になった。その後、1036年に兼頼との間に娘(藤原祐家室、1036-1134)を儲けたが、長暦2年(1038年)頃に父・実資よりも先に没した。結果的には、道長ら九条流の最大の競争相手であった小野宮流の財産の殆どが九条流(正確には道長の御堂流)に入ることとなり、経済的基盤を失った小野宮流は院政期には没落して事実上消滅することになった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大鏡』には「頼忠の宰相の乳母子」とされているが、当時「頼忠の宰相」に該当する人物はいないため、誤記と考えられている。
- ^ 他にも子女はいたが、全て早世か母親の身分が低すぎるために後継者としては認められず、早いうちに出家させている。
- ^ ただし、「官文書・累代要書・御日記」は千古が男子を産んだ場合にその男子に継承させるとしている。これらは官途に就いた男子が公務の資料に用いるもので千古自身の役に立つものではなかったからである[1]。結果的に千古は男子を産まなかったことから、『小右記』をはじめとする文書類は小野宮家の末裔に継承されることになる。
- ^ 『小右記』万寿4年正月11日条において実資は亡くなった正妻の父である藤原斉信の策動を疑っている[4]。一方、野口孝子はこの時長家は後に後妻となる典侍源懿子(源高雅の娘)と関係を持っていたために千古との婚姻に消極的であったと推測する[5]。なお、後に千古の娘が嫁ぐことになる藤原祐家は長家と懿子の三男に当たる。
出典
[編集]- ^ 松薗斉『日記の家 中世国家の記録組織』吉川弘文館、1997年、109・115頁。
- ^ 野口孝子「摂関家の娘たち-藤原道長の娘・尊子-」初出:『古代文化史論攷』十六、奈良・平安文化史研究会、1997年/所収:野口『平安貴族の空間と時間-藤原道長の妻女と邸宅の伝領-』清文堂出版、2024年、56-63頁。ISBN 978-4-7924-1533-4。
- ^ 黒板伸夫『藤原行成』吉川弘文館〈人物叢書〉、1994年、225-226・252-253頁。
- ^ 藤原実資 著、倉本一宏 編『日本の古典 小右記』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス〉、2023年7月、646-649頁。ISBN 978-4-04-400726-3。
- ^ 野口孝子「平安貴族社会の邸宅伝領-藤原道長の子女の伝領をめぐって-」『古代文化』五十七-六、古代学協会、2005年/所収:野口『平安貴族の空間と時間-藤原道長の妻女と邸宅の伝領-』清文堂出版、2024年97-99頁。ISBN 978-4-7924-1533-4。
参考文献
[編集]- 加納重文「藤原千古」『平安時代史事典』角川書店、1994年。ISBN 978-4-04-031700-7。
- 高松百香「藤原千古」『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2008年。ISBN 978-4-642-01440-3。