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藤原斉信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原斉信
時代 平安時代中期
生誕 康保4年(967年
死没 長元8年3月23日1035年5月3日
官位 正二位大納言
主君 円融天皇花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原為光、母:藤原敦敏の娘
兄弟 誠信斉信藤原義懐室、忯子、長信、尋光道信公信、寝殿の御方、儼子、穠子、良光、藤原隆家室、安芸守家平室
永慶、良斉、源頼清室、源宗家室、藤原長家室、源定宗室
養子:公信経任斉長
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藤原 斉信(ふじわら の ただのぶ、康保4年〈967年〉 - 長元8年〈1035年〉)は、平安時代中期の公卿歌人藤原北家太政大臣藤原為光の次男。官位正二位大納言四納言の一人。

経歴

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円融朝天元4年(981年従五位下叙爵し、花山朝初頭の永観2年(984年)従五位上・侍従に叙任される。

寛和元年(985年右兵衛佐に任ぜられると、寛和2年(986年従四位下左近衛少将永延3年(989年)右近衛中将、永祚2年(990年)左近衛中将、正暦2年(991年)従四位上と花山朝から一条朝前期にかけて武官を務めながら順調に昇進した。しかし、正暦3年(992年頭中将藤原公任参議に昇進したことから、後任の蔵人頭の選定が行われる。通常ならば従四位上・左近衛中将であった斉信が適任であったところ、正五位下右中弁源俊賢が任じられた。この時、斉信も自分こそが蔵人頭になるはずと思っていたが、参内して会った俊賢に対して誰が蔵人頭に補せられたか尋ねたところ、俊賢自らが補せられた旨を聞いて、斉信は赤面して退朝したという[1]

正暦5年(994年)斉信は蔵人頭(頭中将)となるが、振る舞いが非常に高貴で、随身を召して使う様子はまるで近衛大将のようであったとされる[1]。斉信は蔵人頭としての職掌もあって中関白家出身の中宮藤原定子のサロンに近しく出入りしていた様子がうかがえる[2]。しかし、長徳元年(995年)4月の関白藤原道隆の薨去を通じて、中関白家から距離を置いて藤原道長に接近したらしく[3]、長徳2年(996年)に発生した長徳の変により、中関白家の藤原伊周隆家兄弟が左遷された当日に、斉信は参議に任ぜられ公卿に列している。なお、左近衛中将を引き続き兼帯した。なお、長徳の変のきっかけとなった伊周兄弟の花山法皇襲撃を道長に密告したのは斉信ではないかとする説もある[4]

参議任官時の年齢は30歳と、兄・誠信の25歳に比べてここまでの昇進は遅れたが、その後は長保元年(999年正四位下、長保2年(1000年従三位と急速に昇進し、参議任官後4年余りで官位面で誠信に肩を並べる。長保3年(1001年)には藤原懐平菅原輔正藤原誠信の上位者3名を越えて権中納言に任ぜられた。この昇進に関して、誠信は自分が権中納言への昇任申請をするので、斉信に対して今回は辞退するように念押ししていたが、左大臣・藤原道長から誠信は昇任できそうもないため昇任申請をするように勧められた斉信が結局申請して権中納言に任ぜられ、この経緯を知った誠信が憤死したとの逸話がある[5]。また、斉信の能力が優れていたために、誠信を越えて昇進したともされる[6]。誠信は藤原伊周に近かったために長徳の変後に道長から疎んじられていたとする推測もある[7]。なお、斉信の権中納言昇進から7日後に誠信が死去しているため、自然死ではないと噂されていた[注釈 1]のは事実のようである[9]

『紫式部日記絵巻』

斉信は藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支え、藤原公任藤原行成源俊賢と共に一条朝の四納言と称されたが、中でも斉信はいわゆる属文の卿相として、藤原行成と共に公私に亘る詩会に熱心に参加した[10]。同じく漢詩を好んだ藤原道長が開催した詩会の常連で、時には道長らと長時間作詩に没頭するといった道長に対する忠勤ぶりを、藤原実資からは「親昵の卿相」「恪勤の上達部」と痛烈に批判されている[注釈 2]

権中納言昇進後も、中宮(権)大夫として道長の長女の中宮藤原彰子に仕える一方で、寛弘元年(1004年従二位、寛弘5年(1008年正二位と順調に昇進し、寛弘6年(1009年)には権大納言に昇進。藤原公任を越えて、四納言の筆頭格となった。斉信は議政官になってからも中宮大夫(彰子・威子)、春宮大夫(敦成親王)を務めて道長の外戚の地位確立に大きく貢献したことも評価されたと考えられている(公任は皇太后藤原遵子の身内であったために彼女への奉仕が優先された)[12]

長和2年(1013年)道長の娘で三条天皇の中宮であった藤原妍子御所として使用されていた東三条殿が焼亡したが、斉信は直ちに郁芳門殿を空けて、妍子の滞在場所とするために提供。道長はこれに非常に感動したことを日記に書きとどめている[13]

寛仁元年(1017年)道長が左大臣から太政大臣に昇進し、順送り人事で内大臣職が空席となるが、6名の(権)大納言の内で一番若い、道長嫡子の頼通内大臣に昇進。斉信はここで公卿昇進後初めて他者に官位を超えられる。寛仁4年(1020年)大納言に昇進し、太政官の第4位の席次を占める。治安元年(1021年)5月に左大臣・藤原顕光の死没を受けての人事異動で、大臣の席が2つ空き、太政大臣には右大臣であった藤原公季、左大臣には内大臣であった藤原頼通、右大臣には上席の大納言・藤原実資が任ぜられるが、内大臣には20歳近く若い道長五男の権大納言・藤原教通が任ぜられ、斉信は再び道長の子息に昇進面で後塵を拝した。

紫式部日記絵巻(模本)

同年10月に斉信は娘を道長六男の藤原長家の室に望む。長家は前年に室(藤原行成の娘)を亡くしたばかりでもあり一旦この話を拒絶するが[14]、道長の仲介もあってまもなく長家は同意し[15]婚儀は行われた。しかし、斉信家での頓死者の発生を隠して婚儀を強引に行ったらしく、直後の豊明節会において大歌所別当を務めるはずであった斉信は参上せず、その後の臨時祭でも長家が祭使を辞任し、舞人を務めた藤原経輔も婚礼の夜に斉信邸を訪問していて觸穢が及ぶ事態となった[16]。このように強引に進めた婚儀であったが、万寿2年(1025年)流行していた赤斑瘡のために、長家室は妊娠7ヶ月で早産して胎児は死亡[17]、母である斉信室は尼となり、斉信は一生涯を食さないとの大願をかけた[注釈 3][19]、間もなく室本人も病死してしまった[20]。娘を亡くした斉信の悲嘆は甚だしく、父・為光が娘の忯子の追善のために建立した法住寺で開催した七十七日法要では、言葉を発することができず、力を落として歩くことすら困難な様子であったという[21]

万寿元年(1024年)、道長は病気療養のために斉信を誘って有馬温泉に旅行している[22]。藤原実資は病人である道長の療養に(一緒に同行した)道長の息子はともかく、年齢も重ね高官となっている斉信がついていく姿勢を批判しているが、娘と長家との婚姻の件も含めて、道長が晩年まで斉信を信頼していた表れとも言える[23]

治安元年(1021年)以降は唯一の正官の大納言であった斉信は大臣への任官を強く望んでいたらしく、万寿3年(1026年)に藤原公任が出家[注釈 4]し、翌4年(1027年)に源俊賢・藤原行成[注釈 5]が相次いで死去した後は、斉信だけは引き続き官に留まっていた[26](出家した公任との交友は斉信が死去するまで続いている[27])。治安3年(1022年)に父・為光が大臣任官を望んで建立した安禅寺で、斉信は息子の永慶に内大臣任官の祈祷をさせているとの噂が出たり[28]、長元2年(1029年)9月には関白・藤原頼通が一時重態に陥るが、斉信が大臣を望んでいたこととの関連が取り沙汰されたという[29]。しかし、同年10月に太政大臣藤原公季が薨じるが太政大臣の後任は立てられず、その後も高齢の右大臣・藤原実資は90歳近い長寿を保ち、左大臣・藤原頼通、内大臣・藤原教通との3人の大臣体制が長く続いたため、ついに斉信の大臣任官は叶うことがなかった。

長元8年(1035年)3月23日薨去。享年69。最終官位は大納言正二位民部卿兼中宮大夫。病に苦しむことなく没したという[30]

人物

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和歌漢詩を始め、朗詠管絃にも通じ、当代随一の文化人としての名声も高かった。清少納言との交流でも知られ、『枕草子』の中にもたびたび登場し、その艶やかな振る舞いを描写されている。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』(1首)をはじめ勅撰和歌集に計6首が入首している[31]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 「左衛門督此暁入滅云々、甚非常也、恒徳公一男也、権中納言同母兄也、除目以降不遇七日、叶盟言云々、年卅八」[8]
  2. ^ 「以七八人上達部、世號恪勤上達部、朝夕致左府之勤歟」[11]
  3. ^ 斉信の弟である藤原公信尋光も病に倒れていたため、彼らの回復も意図したものである[18]
  4. ^ 公任が出家した原因として、斉信との昇進争いに敗れたのもその一因とする見方がある。斉信と公任は同日に権大納言に任じられたにも関わらず、公任の正二位への叙位が斉信より4年も遅れ、しかも娘婿の藤原教通から褒賞を譲った結果による昇叙であった。その後、斉信が(正官の)大納言に昇進したのに対し、公任は権大納言のまま按察使に任じられたことで事実上の極官扱いとなったことで失望したと言われている。そこに娘(教通室)の病死が追い打ちをかける形となったという[24]
  5. ^ 藤原道長と同日に死去[25]

出典

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  1. ^ a b 古事談』第2,臣節「俊賢、蔵人頭に自薦のこと」
  2. ^ 枕草子』78段
  3. ^ 『枕草子』156段,157段
  4. ^ 関口[2007: 133-136]
  5. ^ 『大鏡』巻3,太政大臣為光
  6. ^ 十訓抄』第9
  7. ^ 関口[2007: 138]
  8. ^ 権記』長保3年9月3日条
  9. ^ 関口[2007: 143-144]
  10. ^ 後藤昭雄「一条朝詩壇と『本朝麗藻』」『平安朝漢文学論考』所収。今浜通隆「『本朝麗藻』全注釈(八)」『並木の里』第23号、1983年3月
  11. ^ 小右記』寛弘2年5月14日条
  12. ^ 関口[2007: 143-144]
  13. ^ 御堂関白記』長和2年正月16日条
  14. ^ 『小右記』治安元年10月14日条
  15. ^ 『小右記』治安元年10月28日条
  16. ^ 『小右記』治安元年11月23日,25日条
  17. ^ 『小右記』万寿2年8月27日条
  18. ^ 関口[2007: 146-147]
  19. ^ 『小右記』万寿2年8月28日条
  20. ^ 『小右記』万寿2年8月29日条
  21. ^ 『小右記』万寿2年10月22日条
  22. ^ 『小右記』万寿元年10月24日条
  23. ^ 関口[2007: 146-147]
  24. ^ 関口力「藤原公任」『摂関時代文化史研究』、思文閣出版、2007年 ISBN 4784213449 P206-207.
  25. ^ 『小右記』万寿4年12月4日条
  26. ^ 関口[2007: 144-146]
  27. ^ 関口[2007: 147-148]
  28. ^ 『小右記』治安3年閏9月29日条
  29. ^ 『小右記』長元2年9月14日条
  30. ^ 『公卿補任』
  31. ^ 『勅撰作者部類』
  32. ^ a b c d e f 『近衛府補任』

出典

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  • 福井迪子「藤原斉信の人間像 : 「小右記」を中心に」『語文研究』第66-67号、九州大学国語国文学会、1989年6月、CRID 1390572174716277504doi:10.15017/11929ISSN 0436-0982 
  • 福井迪子「藤原斉信考 : 文芸面から」『語文研究』第44-45号、九州大学国語国文学会、1978年6月、CRID 1390572174716370688doi:10.15017/12093ISSN 0436-0982 
  • 田畑千恵子「枕草子「かへる年の二月二十余日」の段の位相」『国文学研究』第80号、早稲田大学国文学会、1983年6月、CRID 1050001202480230016hdl:2065/43098ISSN 0389-8636 
  • 木村祐子「『枕草子』藤原斉信をめぐる三章段 : その顚末と橘則光」『国文学研究』第55号、國學院大學、2017年1月、CRID 1390576922113611904doi:10.57529/00000821ISSN 0286-5823 
  • 関口力「藤原斉信」『摂関時代文化史研究』、思文閣出版、2007年 ISBN 4784213449 P123-151.
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『公卿補任 第一篇』吉川弘文館新訂増補国史大系〉、1982年。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1987年。
  • 市川久 編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年。
  • 浅見和彦伊東玉美 編『新注 古事談』笠間書院、2010年。ISBN 978-4-305-60309-8