藤原家経
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 正暦3年(992年) |
死没 | 天喜6年5月18日(1058年6月11日) |
別名 | 正字:家經 |
官位 | 正四位下、式部権大輔 |
主君 | 三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流(日野家) |
父母 | 父:藤原広業、母:安部信行の娘 |
兄弟 | 家経、家貞、広算、藤原兼綱妾 |
妻 | 藤原能通の娘、藤原公業の娘 |
子 | 正家、行家、広家、長済、経円、藤原通宗室、藤原弘信室 |
藤原 家経(ふじわら の いえつね)は、平安時代中期の貴族・学者・歌人・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)、参議・藤原広業の長男。官位は正四位下・式部権大輔。
経歴
[編集]後一条朝の長和5年(1016年)頃文章得業生に補され、対策に及第。11月21日に文章博士・大江通直を問頭として家経へ試問が行われている[1]。
六位蔵人兼右衛門尉を務めたのち従五位下に叙爵し、寛仁4年(1020年)刑部権少輔に任ぜられる。弾正少弼を経て、万寿2年(1025年)右少弁に遷ると、後一条朝の後半は弁官を務めたほか左衛門権佐も兼帯し、万寿3年(1026年)従五位上、長元3年(1032年)正五位下と昇進した。なお、この間の治安4年(1024年)3月1日に邸宅が全焼している[2]。
後冷泉朝の天喜2年(1054年)5月11日に出家。天喜6年(1058年)5月18日卒去。享年67。
人物
[編集]父・広業と同じく漢詩をよくした。さらに和歌にも通じ『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に16首が入集している。永承4年(1049年)の『内裏歌合』、永承5年(1050年)『祐子内親王家歌合』などに出詠している。長元9年(1036年)には後冷泉天皇の大嘗会和歌を詠進した。能因法師・伊勢大輔・藤原範永らと交流があった。
官歴
[編集]- 寛仁2年(1018年) 正月10日:六位蔵人[3]
- 寛仁3年(1019年) 正月23日:検非違使宣旨[4]。8月28日:見蔵人右衛門尉[5]
- 寛仁4年(1020年) 10月17日:刑部権少輔[6]
- 治安3年(1023年) 9月7日:止侍読[4]
- 治安4年(1024年) 3月2日:見弾正少弼[4]
- 万寿2年(1025年) 正月29日:右少弁[7]
- 万寿3年(1026年) 正月7日:従五位上[7]
- 万寿4年(1027年) 正月27日:兼備後介[7]
- 万寿5年(1028年) 2月19日:左衛門権佐[7]
- 長元3年(1032年) 日付不詳:見防鴨河使右少弁左衛門権佐文章博士備後介[7]。正月5日:正五位下[7]
- 長元5年(1034年) 2月8日:信濃守[7]
- 長元9年(1038年) 5月1日:見民部権大輔[8]
- 時期不詳:正四位下。式部権大輔[9]
- 永承5年(1050年) 6月5日:見讃岐介[10]
- 天喜2年(1054年) 5月11日:出家[9]
- 天喜6年(1058年) 5月18日:卒去[9]
系譜
[編集]- 父:藤原広業
- 母:安部信行の娘
- 妻:藤原能通の娘
- 男子:藤原正家(1026-1111)
- 男子:藤原広家
- 妻:藤原公業の娘
- 男子:藤原行家(1029-1106)
- 男子:長済(?-1077)
- 生母不明の子女
- 男子:経円
- 女子:藤原通宗室
- 女子:藤原弘信室