藤原忠輔
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天慶7年(944年) |
死没 | 長和2年6月4日(1013年7月14日) |
別名 | 仰ぎ中納言 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇 |
氏族 | 藤原北家山蔭流 |
父母 | 父:藤原国光、母:藤原有好の娘 |
兄弟 | 順時、忠輔、藤原遠量室 |
妻 | 藤原是輔の娘 |
子 | 相任、忠任 |
藤原 忠輔(ふじわら の ただすけ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家山蔭流、治部卿・藤原国光の次男。官位は正三位・権中納言。
経歴
[編集]冷泉朝の安和元年(968年)文章得業生となり、翌安和2年(969年)播磨権少掾に任ぜられる。
円融朝の天禄2年(971年)課試を受けると、兵部丞を経て、天延2年(974年)従五位下・相模権守に叙任される。天延4年(976年)兵部少輔、天元3年(980年)従五位上に叙任された後、花山朝に入ると永観2年(984年)春宮・懐仁親王の東宮学士となる。
寛和2年(986年)懐仁親王が即位(一条天皇)すると二階昇進して従四位下に叙せられ、同年に今度は、新春宮・居貞親王(後の三条天皇)の東宮学士に任ぜられ、二代続けて東宮学士を務める。永延元年(987年)権左中弁に任ぜられると、正暦4年(993年)従四位上次いで正四位下、正暦5年(994年)左中弁と弁官を務めながら順調に昇進し、長徳2年(996年)左中弁の労9年をもって参議兼右大弁に任ぜられて公卿に列した。
議政官として、左右大弁や勘解由長官を兼帯し、長保3年(1001年)従三位に叙せられる。長保4年(1002年)病により勘解由長官を辞任するが、体調が回復したようで翌長保5年(1003年)造宮書殿舎額の功労により正三位に昇り、寛弘2年(1005年)には先任の参議であった藤原有国・藤原懐忠・菅原輔正を超えて権中納言に任ぜられた。
長和2年(1013年)6月4日申刻に薨去。享年70。最終官位は権中納言正三位。
村上・冷泉・円融・花山・一條・三条天皇までの六朝に亘って仕えた。
逸話
[編集]常に空を見上げていたため世の人より仰ぎ中納言と呼ばれた。右中弁在任中、藤原済時が戯れて今天に何かあるのかと訊ねたため、大将を犯す星が現れていると冗談で答えたところ、済時は幾程経たずして亡くなったという[1] 。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 安和元年(968年) 12月25日:文章得業生
- 安和2年(969年) 5月25日:播磨権少掾
- 天禄2年(971年) 8月25日:課試
- 天禄3年(972年) 正月24日:兵部少丞
- 天延2年(974年) 正月29日:兵部大丞(師衡叙替)。11月18日:従五位下(朔旦)。11月28日:相模権守
- 天延4年(976年) 6月16日:兵部少輔(懐忠遷左少将替)
- 天元3年(980年) 正月7日:従五位上(策)
- 永観2年(984年) 8月27日:東宮学士(春宮・懐仁親王)
- 寛和2年(986年) 6月:止学士(践祚)、昇殿。7月16日:東宮学士(春宮・居貞親王)。7月22日:従四位下(御即位、叙二階)。8月13日:大学頭
- 永延元年(987年) 7月11日:権左中弁、学士如元
- 永祚2年(990年) 正月29日:紀伊権守
- 正暦4年(993年) 正月7日:従四位上(策)。11月25日:正四位下(臨時)
- 正暦5年(994年) 正月13日:紀伊権守。9月8日:左中弁
- 長徳2年(996年) 7月19日:参議(左中弁労玖年)。8月5日:右大弁(抽侍読功也)
- 長徳3年(997年) 正月28日:播磨守
- 長徳4年(998年) 11月23日:左大弁
- 長保3年(1001年) 8月25日:勘解由長官。10月10日:従三位(臨時)
- 長保4年(1002年) 2月30日:備中守 11月:辞長官(依病也)
- 長保5年(1003年) 11月5日:正三位(造宮書殿舎額賞)
- 寛弘2年(1005年) 6月19日:権中納言
- 寛弘5年(1008年) 10月30日:兵部卿
- 長和2年(1013年) 6月4日:薨去(権中納言正三位)。6月17日:奏上
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年