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山科教成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原教成から転送)
 
山科 教成
時代 鎌倉時代
生誕 治承元年(1177年
死没 延応元年4月13日1239年5月17日
官位 正二位権中納言
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 伊勢平氏藤原北家四条流山科家
父母 父:平業房、母:高階栄子
養父:藤原実教
兄弟 業兼山科教成藤原範能室、藤原宗隆室、藤原兼光
教房教綱教経教基教高忠成
特記
事項
山科家の祖
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山科 教成(やましな のりしげ)は、鎌倉時代公家左衛門佐平業房の次男。中納言藤原実教の猶子。官位正二位・権中納言。山科家の祖。

経歴

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童名金毘羅丸で、後白河法皇下北面に仕えた。治承3年(1179年)に発生した治承三年の政変を通じて父・平業房が処刑されたのち、母の丹後局が後白河法皇の寵妃となったことから、法皇の命令により藤原実教の養子となる[1]

後白河院政期後期の文治3年(1187年元服し、従五位下中務少輔に叙任される。文治4年(1188年)従五位上・右兵衛佐に叙任されると、文治5年(1189年正五位下建久2年(1191年左近衛少将、建久3年(1192年従四位下と、母・丹後局の後押しにより後白河院政期末にかけて順調に昇進する。

同年後白河法皇が没するが、建久7年(1196年)従四位上、建久9年(1198年正四位下、正治3年(1201年)左近衛中将、建仁2年(1202年右兵衛督と武官を務めながら引き続き昇進を重ねる。当時、左近衛少将・藤原定家は若年ながら上﨟であった教成について、その出世ぶりと人品に反感と憤りを記している(『明月記』)。

建仁2年(1202年)には丹後局と組んで権勢を振るっていた内大臣源通親薨去して、後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜する。しかし、異父妹・宣陽門院の威光もあって教成は引き続き昇進を続け、建仁4年(1204年従三位に叙せられ公卿に列すと、承元2年(1208年正三位、承元3年(1209年参議に叙任された。議政官として左衛門督検非違使別当)を兼ね、承元5年(1211年)には権中納言に昇任される。

建暦2年(1212年従二位に昇進したのち、建保2年(1214年)権中納言を辞すが、建保3年(1215年正二位に至る。建保4年(1216年)母・丹後局が没すると遺領の山科荘を相続し、これ以降教成の子孫は山科家の家名を名乗るようになる。承久3年(1221年承久の乱後の7月に謹慎するが、10月にはこれを解かれて再び出仕した。

延応元年(1239年)4月13日薨去享年63。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 養父:藤原実教
  • 父:平業房
  • 母:高階栄子(丹後局)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:山科教房
    • 男子:藤原教綱
    • 男子:藤原教経
    • 男子:藤原教基
    • 男子:藤原教高
    • 男子:冷泉忠成 - 或いは藤原公長の子[2]

脚注

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  1. ^ 『尊卑分脈』
  2. ^ 『仁和寺文書』

参考文献

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