山科教成
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 治承元年(1177年) |
死没 | 延応元年4月13日(1239年5月17日) |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 伊勢平氏→藤原北家四条流山科家 |
父母 |
父:平業房、母:高階栄子 養父:藤原実教 |
兄弟 | 業兼、山科教成、藤原範能室、藤原宗隆室、藤原兼光室 |
子 | 教房、教綱、教経、教基、教高、忠成 |
特記 事項 | 山科家の祖 |
山科 教成(やましな のりしげ)は、鎌倉時代の公家。左衛門佐・平業房の次男。中納言・藤原実教の猶子。官位は正二位・権中納言。山科家の祖。
経歴
[編集]童名は金毘羅丸で、後白河法皇の下北面に仕えた。治承3年(1179年)に発生した治承三年の政変を通じて父・平業房が処刑されたのち、母の丹後局が後白河法皇の寵妃となったことから、法皇の命令により藤原実教の養子となる[1]。
後白河院政期後期の文治3年(1187年)元服し、従五位下・中務少輔に叙任される。文治4年(1188年)従五位上・右兵衛佐に叙任されると、文治5年(1189年)正五位下、建久2年(1191年)左近衛少将、建久3年(1192年)従四位下と、母・丹後局の後押しにより後白河院政期末にかけて順調に昇進する。
同年後白河法皇が没するが、建久7年(1196年)従四位上、建久9年(1198年)正四位下、正治3年(1201年)左近衛中将、建仁2年(1202年)右兵衛督と武官を務めながら引き続き昇進を重ねる。当時、左近衛少将・藤原定家は若年ながら上﨟であった教成について、その出世ぶりと人品に反感と憤りを記している(『明月記』)。
建仁2年(1202年)には丹後局と組んで権勢を振るっていた内大臣・源通親が薨去して、後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜する。しかし、異父妹・宣陽門院の威光もあって教成は引き続き昇進を続け、建仁4年(1204年)従三位に叙せられ公卿に列すと、承元2年(1208年)正三位、承元3年(1209年)参議に叙任された。議政官として左衛門督(検非違使別当)を兼ね、承元5年(1211年)には権中納言に昇任される。
建暦2年(1212年)従二位に昇進したのち、建保2年(1214年)権中納言を辞すが、建保3年(1215年)正二位に至る。建保4年(1216年)母・丹後局が没すると遺領の山科荘を相続し、これ以降教成の子孫は山科家の家名を名乗るようになる。承久3年(1221年)承久の乱後の7月に謹慎するが、10月にはこれを解かれて再び出仕した。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 文治3年(1187年) 正月28日:元服、従五位下、中務少輔
- 文治4年(1188年) 正月23日:従五位上、右兵衛佐
- 文治5年(1189年) 正月5日:正五位下
- 建久2年(1191年) 11月5日:左近衛少将
- 建久3年(1192年) 正月5日:従四位下。正月27日:兼備前介
- 建久5年(1194年) 正月20日:辞少将
- 建久7年(1196年) 正月5日:従四位上(宣陽門院御給)
- 建久8年(1197年) 10月1日:還任少将
- 建久9年(1198年) 正月11日:聴新帝昇殿。正月30日:兼備中介。11月21日:正四位下(大嘗会国司賞)
- 正治2年(1200年) 4月24日:聴春宮昇殿
- 正治3年(1201年) 正月29日:左近衛中将
- 建仁2年(1202年) 正月21日:右兵衛督
- 建仁3年(1203年) 正月23日:左兵衛督
- 建仁4年(1204年) 正月13日:従三位
- 承元2年(1208年) 正月13日:正三位(宣陽門院御給)
- 承元3年(1209年) 4月10日:参議、左兵衛督如元。11月4日:兼左衛門督
- 承元5年(1211年) 正月18日:兼検非違使別当、9月8日:権中納言、去督別当
- 建暦2年(1212年) 正月5日:従二位(宣陽門院御給)
- 建保2年(1214年) 正月13日:辞権中納言
- 建保3年(1215年) 4月12日:正二位
- 建保4年(1216年) 2月22日:服解(母)
- 承久3年(1221年) 7月20日:恐懼。10月:許出仕
- 嘉禄3年(1227年) 4月3日:服解(父)
- 延応元年(1239年) 4月13日:薨去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。