藤原経家 (権中納言)
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 寛仁2年(1018年) |
死没 | 治暦4年5月25日(1068年6月27日) |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 |
後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇 藤原寛子(皇后宮職) |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原定頼、母:源済政の娘 |
兄弟 | 経家、藤原信長室、経源、敦平親王妃 |
妻 | 大江定綱の娘 |
子 |
公定、公円 養子:定綱 |
藤原 経家(ふじわら の つねいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原定頼の子。官位は正三位・権中納言。
経歴
[編集]後一条朝の長元4年(1031年)従五位下に叙爵し、翌長元5年(1032年)侍従に任官する。
少納言を経て、後一条朝末の長元9年(1036年)正五位下・右少弁に叙任されると、長暦4年(1040年)従四位下、長久4年(1043年)従四位上・右中弁、永承元年(1046年)正四位下、永承3年(1048年)蔵人頭兼権左中弁、永承5年(1050年)には正官の左中弁・平定親を超えて右大弁に任ぜられるなど、後朱雀朝から後冷泉朝にかけて弁官を務めながら昇進を重ねる。
天喜4年(1056年)従三位に叙せられて公卿に列す。天喜6年(1058年)左大弁を経て、康平4年(1061年)参議に任ぜられた。議政官としても弁官を兼帯し、康平6年(1063年)正三位に至る。治暦元年(1065年)権中納言に昇任し、30年近くに亘って務めた弁官の職を離れた。
後三条朝初頭の治暦4年(1068年)5月25日薨去。享年51。最終官位は権中納言正三位。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 長元4年(1031年) 2月28日:従五位下(源倫子給)
- 長元5年(1032年) 11月28日:侍従
- 長元6年(1033年) 正月7日:従五位上(春宮御給)。正月28日:少納言
- 長元8年(1035年) 正月30日:紀伊権守
- 長元9年(1036年) 正月7日:正五位下(章子内親王御給)。2月27日:右少弁
- 長元10年(1037年) 3月5日:造大安寺長官
- 長暦2年(1038年) 正月14日:五位蔵人。4月8日:兼斎院長官、止大安寺長官
- 長暦4年(1040年) 正月7日:従四位下(弁労)。正月12日:還昇。
- 長久4年(1043年) 正月7日:従四位上(祐子内親王御給)。9月19日:右中弁
- 寛徳2年(1045年) 正月16日:春宮殿上。
- 永承元年(1046年) 3月18日:正四位下(天皇自内大臣二条第還御内裏賞)
- 永承3年(1048年) 12月7日:権左中弁。12月16日:蔵人頭
- 永承4年(1049年) 2月5日:兼伊予介(装束使労)
- 永承5年(1050年) 9月17日:右大弁(超左中弁平定親)
- 永承6年(1051年) 2月13日:兼皇后宮権亮(皇后・藤原寛子)
- 永承7年(1052年) 11月3日:兼内蔵頭
- 天喜2年(1057年) 2月22日:兼備中権守、去内蔵頭
- 天喜4年(1056年) 正月7日 :従三位(去天喜2年行幸皇后宮賞)
- 天喜6年(1058年) 4月24日:左大弁
- 康平4年(1061年) 3月29日:兼勘解由長官。12月8日:参議
- 康平5年(1062年) 正月30日:兼播磨権守
- 康平6年(1063年) 正月5日:正三位(中弁之時行幸行事賞)
- 治暦元年(1065年) 12月8日:権中納言
- 治暦4年(1068年) 5月25日:薨去(権中納言正三位)
系譜
[編集]出典
[編集]公職 | ||
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先代 源資通 |
勘解由長官 1060 - 1066 |
次代 藤原泰憲 |
先代 源経長 |
左大弁 1058 - 1066 |
次代 藤原泰憲 |
先代 源資通 |
右大弁 1050 - 1058 |
次代 源隆俊 |
先代 源資通 |
蔵人頭 1049 - 1051 |
次代 源隆俊 |