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藤原縄麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 縄麻呂
時代 奈良時代
生誕 天平元年(729年
死没 宝亀10年12月13日780年1月24日
別名 縄万呂、綱麻呂
官位 従三位中納言従二位大納言
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原豊成、母:藤原房前の娘
兄弟 武良自継縄乙縄縄麻呂中将姫
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藤原 縄麻呂(ふじわら の ただまろ)は、奈良時代公卿縄万呂綱麻呂とも記される。右大臣藤原豊成の四男。官位従三位中納言従二位大納言

経歴

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右大臣藤原豊成の末男(四男)であったが、聖武朝最末年の天平感宝元年(749年)4月に兄弟でいち早く従五位下叙爵し、侍従に任ぜられる。

孝謙朝天平勝宝9歳(757年)6月に兵部少輔兼侍従となる。同年7月に橘奈良麻呂の乱が発生すると、父の豊成が右大臣を罷免されて大宰員外帥に落とされ、兄の乙縄日向員外掾左遷されるが、縄麻呂は連座を逃れている。淳仁朝でも引き続き侍従を務めると共に礼部大輔などを歴任し、この間天平宝字5年(761年)従五位上、天平宝字8年(764年)正月に正五位下と順調に昇進する。

同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際しては孝謙上皇側に加勢し従四位下参議に叙任され公卿に列する。さらに翌天平神護元年(765年)正月には乱における功労により勲三等叙勲され、まもなく正四位下に昇進した。称徳朝では、御前騎兵将軍・民部卿勅旨大輔・侍従などを歴任する一方、天平神護2年(766年)正四位上、神護景雲2年(768年従三位と引き続き順調に昇進した。

神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、左大臣藤原永手らと共に白壁王を皇嗣に擁立(光仁天皇)する[1]。翌宝亀2年(771年中納言。光仁朝では議政官として皇太子傳・勅旨卿・中衛大将を兼任した。宝亀8年(777年)の内大臣藤原良継の薨去等により、大臣であった大中臣清麻呂藤原魚名に次ぐ太政官第三位の席次にまで昇る。宝亀10年(779年)7月に朝廷の実力者であった参議・藤原百川の薨去以降は、その後を継いで朝政にあたったが[2]、同年12月13日薨去。享年51。最終官位は従三位中納言兼勅旨卿侍従勲三等。即日、従二位大納言の官位を追贈された。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』宝亀元年8月4日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀10年12月13日条
  3. ^ a b c 『公卿補任』

出典

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  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 林陸朗「奈良朝政局における藤原縄麻呂の立場」『史聚』48号、史聚会、2015年