藤原乙縄
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天応元年6月6日(781年7月1日) |
別名 | 弟縄 |
官位 | 従四位上、参議 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 藤原南家 |
父母 | 父:藤原豊成、母:路虫麻呂の娘 |
兄弟 | 武良自、継縄、乙縄、縄麻呂、中将姫 |
子 | 清岳、岡継 |
藤原 乙縄(ふじわら の おとただ)は、奈良時代の公卿。名は弟縄とも記される。藤原南家、右大臣・藤原豊成の三男。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]天平勝宝9歳(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱に際して、普段から橘奈良麻呂と親しかったことを理由に[1]、乱に与したとして日向員外掾に左遷される(この時の位階は正六位上)。また、父・豊成も右大臣を免職されて大宰員外帥に左遷されている。
天平宝字8年(764年)10月に藤原仲麻呂の乱が発生すると、従五位下に叙爵して官界に復帰する。こののち、称徳朝では大蔵大輔・大判事を歴任し、神護景雲2年(768年)従五位上に昇叙される。
神護景雲4年(770年)称徳天皇崩御後まもなく、一挙に三階昇進し従四位下に叙せられるが、同年土佐守次いで美作守と地方官に転じる。宝亀3年(772年)弾正尹として京官に復すと、宝亀9年(778年)従四位上、宝亀10年(779年)参議兼刑部卿と光仁朝末にかけて再び昇進する。
桓武天皇の即位後まもない、天応元年(781年)6月6日卒去。最終官位は参議従四位上守刑部卿。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平宝字元年(757年) 11月27日:日向員外掾
- 天平宝字8年(764年) 10月7日:従五位下
- 神護景雲元年(767年) 2月28日:大蔵大輔。12月9日:大判事
- 神護景雲2年(768年) 正月10日:従五位上
- 神護景雲4年(770年) 8月9日:従四位下(越階)。9月7日:土佐守。9月16日:美作守
- 宝亀3年(772年) 4月20日:弾正尹
- 宝亀5年(774年) 3月5日:兼下総守
- 宝亀7年(776年) 閏8月20日:美作守
- 宝亀9年(778年) 正月16日:従四位上
- 宝亀10年(779年) 9月13日:参議兼刑部卿
- 天応元年(781年) 6月6日:卒去(参議従四位上守刑部卿)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。