藤原能季
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 長暦3年(1039年) |
死没 | 承保4年8月1日(1077年8月21日) |
別名 | 伊勢中納言 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原頼宗、母:藤原親時の娘 |
兄弟 | 院の上、兼頼、延子、俊家、基貞、能長、能季、頼観、昭子、源師房室 |
妻 | 藤原信房の娘 |
子 | 有家、実覚、季覚、宗覚、陽伊 |
藤原 能季(ふじわら の よしすえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家中御門流、右大臣・藤原頼宗の五男。官位は正二位・権中納言。伊勢中納言と号す。
経歴
[編集]後冷泉朝の永承3年(1048年)従五位下に叙爵し、永承7年(1052年)侍従に任官。天喜2年(1054年)従五位上・少納言に叙任されると、侍従と少納言を務めながら、天喜3年(1055年)正五位下、天喜4年(1056年)従四位下、康平2年(1059年)従四位上次いで正四位下と昇進を重ねる。康平4年(1061年)蔵人頭に補せられたのち、康平6年(1063年)になって左近衛中将に任ぜられた。
康平7年(1064年)父・頼宗の右近衛大将辞任に伴い、能長は参議に任ぜられて公卿に列すと、翌康平8年(1065年)頼宗の譲りを受けて従三位に叙せられるが、前後して頼宗が没している。参議任官後も引き続き近衛中将を務める傍ら、治暦4年(1068年)正三位、延久元年(1069年)従二位と昇叙を重ね、後三条朝末の延久4年(1072年)権中納言に昇進した。
白河朝の承保4年(1077年)正月に正二位に至るが、疱瘡に冒され同年8月1日に薨去。享年39。最終官位は権中納言正二位。9月5日にその死が奏上された。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 永承3年(1048年) 正月5日:従五位下(祐子内親王御給)
- 永承7年(1052年) 2月20日:侍従
- 時期不詳:昇殿
- 天喜2年(1054年) 正月5日:従五位上(中宮御給)。2月22日:少納言
- 天喜3年(1055年) 正月5日:正五位下(皇后宮御給)
- 天喜4年(1056年) 正月7日:従四位下(中宮御給)、少納言如元、聴昇殿
- 天喜5年(1057年) 2月30日:紀伊権守
- 康平2年(1059年) 正月5日:従四位上(少納言)。2月8日:正四位下(行幸上東門院御傍親賞)
- 康平4年(1061年) 3月11日:蔵人頭
- 康平6年(1063年) 2月21日:左近衛中将
- 康平7年(1064年) 3月4日:兼近江介。12月26日:参議、右近衛中将、去介
- 康平8年(1065年) 2月3日:服解(父)。2月8日:従三位(父讓)。3月29日:復任
- 治暦2年(1066年) 2月8日:兼近江権守
- 治暦3年(1067年) 2月6日:兼左近衛中将
- 治暦4年(1068年) 11月25日:正三位(悠紀)
- 延久元年(1069年) 8月9日:従二位(石淸水賀茂行幸行事賞)
- 延久3年(1071年) 正月28日:備中権守
- 延久4年(1072年) 12月2日:権中納言
- 承保4年(1077年) 正月6日:正二位(臨時)。8月1日:薨去(疱瘡)。9月5日:薨奏
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年