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藤原良縄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 良縄
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁5年(814年
死没 貞観10年2月18日868年3月15日
別名 字:朝台
官位 正四位下参議
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原大津、母:紀南麻呂の娘
兄弟 良縄、安縄、扶縄
橘田村子(橘入居の娘)
邦直、邦香
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藤原 良縄(ふじわら の よしただ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿藤原北家備前守藤原大津の長男。官位正四位下参議

経歴

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仁明朝承和4年(837年内舎人に任官。中務省啓令により皇太子・道康親王に仕えるが、親王の寵愛を受け、嘉祥3年(850年)道康親王が即位(文徳天皇)すると、蔵人に抜擢される。仁寿2年(852年従五位下に叙せられ、翌仁寿3年(853年)には侍従蔵人頭に任ぜられる。

仁寿4年(854年)8月に皇太子・惟仁親王(のち清和天皇)の春宮亮を兼任する。まもなく備前守として赴任していた父・大津が病に倒れた事を聞き、良縄は父の許へ馳せ参じようとするが、天皇の許しを得られなかった。結局同年10月大津は死去し、良縄は官職を辞して出仕を止めてしまう。まもなく、出仕するよう詔勅があり、同年11月左兵衛権佐に任ぜられた。

再出仕後は斉衡2年(855年)従五位上、天安元年(857年)には正五位下次いで従四位下と急速に昇進し、蔵人頭・右大弁・左近衛中将勘解由長官など要職を兼帯する。文徳天皇の信頼は非常に篤く、内外の多数の政務を委ねられこれを決したという。

天安2年(858年)文徳天皇の崩御後まもなく参議に任ぜられて公卿に列し、同年11月清和天皇の即位に伴い従四位上に昇叙される。清和朝初頭は議政官として、左右大弁に左近衛中将と引き続き文武の要職を兼帯するが、貞観5年(863年)に左大弁・左近衛中将の兼官を離れて、右衛門督に遷っている。

山城国葛野郡(現在の京都市西京区)の別荘に文徳天皇の供養のために造仏・写経を行って安置し、出家した母を住まわせていたが、貞観4年(862年)この別荘を道場とし真如院を建立している[1]。毎年8月の文徳天皇の命日には法華経を講じる事を終生続けたという。

貞観10年(868年)2月18日卒去享年55。最終官位は参議正四位下行右衛門督兼太皇大后宮大夫。

人物

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姿格好がしとやかで優雅であり、立ち居振る舞いも細かいところにまで行き届いていた。性格も温厚で分を越えて飾り立てる事を好まなかった。孝行心が非常に篤い一方、朝廷に対しても真心を込めて誠実に仕え、時の人に忠孝が共に備わっている人格者であると称賛されたという。

朝廷に仕えては、機密を漏らす事が決してなく、諸司諸院の長官として公事を取り仕切る際、決して誤った振る舞いをする事がなかった。

父母への孝養については、任国で没した父の様子を聞いて血を吐いて失神した。また、母が病床に伏せた際には、寝食を忘れ付きっきりで看病をし、その死の際の哀号儀礼に留まらず、ほとんど毀滅してしまいそうな程のものであったという話が伝わっている[2]

逸話

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人相見であった興福寺の僧・円一が良縄の容貌を見て、必ず卿相に昇り天皇の寵愛は比類がないであろうと言ったが、のちに同志に対して、命のみ惜しむべきであると嘆息したという。

内舎人の官職にあった際、他の内舎人は名家の子弟という事で、度を過ぎて贅沢な上に、自由気ままに勝手な行動をしていたが、良縄を見ると皆が行動を改め法規を遵守するようになったという。他の内舎人はこの理由について、良縄が来たら我々を苦しめるので、いない時でも良縄の事を忘れる者はいない、と言ったという。

清和朝において左大弁・左近衛中将の官職にあった際、年長の大儒学者であった右大弁・南淵年名や左中弁・大江音人、あるいは少壮気鋭で才望が非常に高かった左近衛少将・藤原基経が共に四位の位階にあった事から、自らが上職として現在の官職に留まるべきではないとして、病気と称してしばしば職務を離れ、懇切に辞退して敢えて職務を務めなかった。しばらくして、良縄は右衛門督に転任し、南淵年名は左大弁に、大江音人は右大弁に、藤原基経は左近衛中将にそれぞれ昇進したという[2]

官歴

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注記のないものは『六国史』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

出典

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脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』貞観4年2月16日条
  2. ^ a b 『日本三代実録』貞観10年2月18日条
  3. ^ a b c d e f g 『公卿補任』
  4. ^ 『日本三代実録』貞観10年2月18日条による。ただし、橘田村子は桓武天皇806年崩御)の后妃として皇女(池上内親王)を儲けていることから、年代的にやや不整合がある。