藤原隆佐
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛和元年(985年) |
死没 | 承保元年(1074年) |
別名 | 正字:隆佐、字:藤総 |
官位 | 従三位、大蔵卿 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原宣孝、母:藤原朝成の娘 |
兄弟 | 隆光、頼宣、儀明、隆佐、明懐、賢子、藤原道雅正室 |
妻 | 藤原宣雅の娘、藤原泰通の娘 |
子 | 忠基、宣実、保房、隆尊 |
藤原 隆佐(ふじわら の たかすけ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流、右衛門権佐・藤原宣孝の五男。官位は従三位・大蔵卿。
経歴
[編集]一条朝の寛弘元年(1004年)に文章生に補され、寛弘4年(1007年)少内記、寛弘6年(1009年)大内記と内記を歴任。春宮・居貞親王の蔵人を経て、寛弘8年(1011年)居貞親王が即位(三条天皇)すると長和2年(1013年)六位蔵人に補任される。のち、式部丞を経て、長和5年(1016年)には従五位下に叙爵された。
同年の後一条天皇の即位後も引き続き昇殿を聴されるとともに、三条院の判代官を務める。また、同年3月には三条院が摂政・藤原道長に対して、隆佐に東宮昇殿を聴すべきであると述べる[1]など、三条院の信頼が厚かった様子が窺われる。長和6年(1017年)伯耆守に任ぜられて任地に下向。寛仁5年(1021年)に帰京し、翌治安2年(1022年)正月に治国を賞されて従五位上に、さらに同年4月には造宮廊の功で正五位下に叙せられる。万寿3年(1026年)越後守に任ぜられ、長元2年(1029年)まで国司を務めた。
その後は、長元4年(1031年)に春宮・敦良親王の春宮大進となり、長元5年(1032年)には左衛門権佐・検非違使佐を兼ねるなど京官を務めた。のち、長元8年(1035年)従四位下次いで従四位上、長元9年(1036年)敦良親王の即位(後朱雀天皇)に伴って春宮大進の功労により正四位下に叙せられている。長暦元年(1037年)春宮亮として今度は新春宮・親仁親王に仕える一方で、長暦2年(1038年)近江守を兼ねた。
寛徳2年(1045年)親仁親王が即位(後冷泉天皇)するも、隆佐は既に正四位下に至っていたことから、すぐに前春宮亮としての叙位はなされず、永承4年(1049年)に播磨守に任ぜられる。のち、皇后・藤原寛子の皇后宮亮や近江守を務め、康平2年(1059年)になって、前春宮亮としての功労により正四位下昇進後から約23年を経て従三位に叙せられ、76歳にしてついに公卿に列した。公卿昇進後はしばらく散位にあったが治暦2年(1066年)大蔵卿に任ぜられている。
承保元年(1074年)薨去。享年90。最終官位は大蔵卿従三位。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 寛弘元年(1004年) 10月29日:文章生(字藤総)
- 時期不詳:蔵人所雑色
- 寛弘4年(1007年) 正月28日:少内記
- 寛弘6年(1009年) 正月28日:大内記
- 時期不詳:春宮蔵人
- 長和2年(1013年) 正月15日:内蔵人
- 長和3年(1014年) 正月24日:式部少丞。2月8日:式部大丞
- 長和5年(1016年) 正月25日:従五位下(蔵人)。2月8日:昇殿。2月29日:三条院判官代(譲位日)
- 長和6年(1017年) 正月24日:伯耆守(三条院御給)
- 寛仁5年(1021年) 日付不詳:得替
- 治安2年(1022年) 正月30日:従五位上(治国)。4月3日:正五位下(造宮廊功)
- 万寿3年(1026年) 正月29日:越後守
- 長元2年(1029年) 正月24日:去任
- 長元4年(1031年) 2月:春宮大進(春宮・敦良親王)
- 長元5年(1032年) 2月8日:兼左衛門権佐。2月15日:検非違使佐
- 長元8年(1035年) 正月5日:従四位下(佐労)。10月16日:従四位上(造興福寺御塔行事)
- 長元9年(1036年) 4月:止大進、昇殿(踐祚日)。7月10日:正四位下(御即位、坊官)
- 長暦元年(1037年) 8月7日:兼春宮亮(春宮・親仁親王)
- 長暦2年(1038年) 正月29日:兼近江守(前坊大進)
- 寛徳2年(1045年) 日付不詳:止春宮亮、昇殿(践祚)
- 寛徳3年(1046年) 日付不詳:得替
- 永承4年(1049年) 2月5日:播磨守(坊亮)
- 永承6年(1051年) 2月13日:兼皇后宮亮(皇后・藤原寛子)
- 天喜2年(1054年) 2月23日:兼讃岐守。12月29日:兼近江守
- 康平2年(1059年) 正月7日:従三位(前坊亮労)、伊予守。2月3日:得替解任
- 治暦2年(1066年) 6月27日:大蔵卿
- 承保元年(1074年) 日付不詳:薨去[2]