藤原隆光
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天延元年(973年)[1] |
死没 | 不明 |
官位 | 正四位下、備中守 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 藤原北家高藤流 |
父母 | 父:藤原宣孝、母:藤原顕猷の娘 |
兄弟 | 隆光、頼宣、隆佐、明懐、儀明、大弐三位、藤原道雅室 |
妻 | 源国挙の娘、家女房 |
子 | 隆経、隆方、隆成、隆清、林慶、教意 |
藤原 隆光(ふじわら の たかみつ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、右衛門権佐・藤原宣孝の子。官位は正四位下・備中守。
経歴
[編集]一条朝の長保2年(1000年)主殿権助として見えるのが史料上の初見。長保3年(1001年)蔵人に補され、寛弘2年(1005年)には蔵人式部丞として、藤原実資の許に宣旨を持来している[2]。寛弘末期に従五位下に叙爵し、蔵人大夫となる。また、藤原道長に近習として身近に仕えた[3]。
後一条朝の治安3年(1023年)頃に皇后宮大進に任ぜられて皇后・藤原威子に仕え、治安4年(1024年)に正五位下に叙せられている。主殿頭を経て、長元3年(1030年)正四位下に至る。その後、左京大夫を務めたほか、時期は明らかでないが越前・筑前・備中・備前と四カ国の受領を歴任している。
官歴
[編集]- 長保2年(1000年) 正月22日:見主殿権助[4]
- 長保3年(1001年) 6月20日:兼六位蔵人[4]
- 寛弘2年(1005年) 3月25日:見蔵人式部丞[5]
- 時期不詳:従五位下
- 寛弘8年(1011年) 6月25日:見蔵人大夫[4]
- 治安3年(1023年)頃:皇后宮大進(皇后・藤原威子)
- 治安4年(1024年) 正月26日:正五位下(皇后宮当年御給)[5]
- 万寿2年(1025年) 4月26日:見皇后宮大進[6]
- 時期不詳:主殿頭
- 長元3年(1030年) 9月10日:正四位下[5]
- 長暦2年(1038年) 12月14日:見左京大夫[7]
- 時期不詳:越前守。筑前守。備前守。備中守[8]
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。