甘露寺国長
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 明和8年9月10日(1771年10月17日) |
死没 | 天保8年6月18日(1837年7月20日) |
戒名 | 惟徳院 |
官位 | 従一位、権大納言、武家伝奏 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇 |
氏族 | 甘露寺家 |
父母 | 父:甘露寺篤長、母:河越左門の娘 |
兄弟 | 国長、堤広長、敬子[1]、中園実暉 |
妻 |
正室:関千衛子(関長誠の娘) 継室:冷泉初子(冷泉為章の娘) |
子 |
治長、愛長、竹内惟和室、小倉輔季、妍子 養子:遂子 |
甘露寺 国長(かんろじ くになが)は、江戸時代後期の公卿。官位は従一位・権大納言、武家伝奏。甘露寺家31代当主。
経歴
[編集]明和8年(1771年)、甘露寺篤長の子として誕生。正室は関長誠の娘・千衛子、継室は冷泉為章の娘・初子。
文化10年(1813年)、加茂下上社伝奏。文化11年(1814年)正二位・権大納言となる。文政2年(1819年)これを辞する。文政5年(1822年)武家伝奏、文政7年(1824年)従一位、天保7年(1836年)武家伝奏を辞任する。