吉田定経
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時代 | 平安時代末期-鎌倉時代初期 |
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生誕 | 保元3年(1158年) |
死没 | 寛喜3年2月14日(1231年3月19日) |
改名 | 定経→蓮位(法名) |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 吉田家 |
父母 | 父:吉田経房、母:平範家の娘 |
兄弟 | 定経、良経、最妙、滋野井公時室、平時実室 |
妻 | 平親範の娘、源定房の娘 |
子 | 資経、経賢、為定、他 |
吉田 定経(よしだ さだつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権大納言吉田経房の長男。母は平範家の娘。従三位・参議。
経歴
[編集]仁安2年(1167年)に後白河院判官代に叙爵。同3年(1168年)安房守。安元2年(1176年)には院分国の美濃国の国司に任ずるが、平清盛による治承三年の政変において解官される。
文治元年(1185年)五位蔵人。同3年(1187年))には壇ノ浦の戦いで逸失した天叢雲剣の最後の大捜索が行われ、定経は後白河院と九条兼実の間を頻繁に往来して、伝奏を務めている。同4年(1188年)には右少弁・左衛門権佐を兼ね、三事兼帯を果たす。同年、父の経房が勧修寺流の長者に任ぜられると、やがてその後継者と目せられるようになり、順調に公家社会に地歩を築いていった。のち蔵人頭を経て建久8年(1197年)に参議となり、正治元年(1199年)には従三位に叙せられた。しかし同年、菩提心を発し、天王寺にて出家(法名は蓮位)。これに憤激した父・経房は定経を義絶し、その長男・資経を養子として吉田家の後嗣とした。
晩年は不孝な態度を改めない次男・経賢との確執もあり、決して穏やかではなかった。寛喜3年(1231年)、76歳で死去。日記として『西記』を遺している。また、勅撰歌人として『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に四首が採録される。