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藤本鉄熊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤本 鉄熊(ふじもと てつくま、1891年明治24年)10月15日[1][注 1] - 1950年昭和25年)9月3日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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山口県出身[1][2][3]。藤本弥四郎の息子として生まれる。1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる[1][4]。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した[1][2][3]

1925年(大正14年)2月、陸軍省軍務局付勤務となり、イギリス駐在、イギリス大使館武官補佐官を務め、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。1931年(昭和6年)3月、歩兵第47連隊大隊長に就任し、関東軍参謀に転じ、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進み陸大研究部主事となる[1][3]。1935年(昭和10年)8月、陸大教官に就任し、1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し、同月、兵科航空兵に転科し航空兵大佐となった[1][3]

1937年10月、第10軍参謀となり日中戦争に出征[1][2][3]南京戦などに参戦した[2]。1938年(昭和13年)3月、下志津陸軍飛行学校教官に転じ、飛行第6連隊長、飛行第6戦隊長を経て、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進み第6軍参謀長に発令され、ノモンハン事件に出動した[1][2][3]。1940年(昭和15年)12月、陸軍航空士官学校幹事に転じ、1942年(昭和17年)6月、第2航空軍参謀長に発令され満州に赴任[1][2][3]。1943年(昭和18年)5月に待命となり、同年6月、予備役に編入された[1][2][3]。同月に召集され南方航空輸送司令官となり太平洋戦争に出征[1][2][3]。1944年(昭和19年)10月、陸軍中将に進級し終戦を迎えた[1][2]。1946年(昭和21年)7月に復員した[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』639頁では10月13日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、139頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』639頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』356-357頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348、356-357頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。