諏訪盛経
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時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 盛経→真性(法名) |
別名 | 通称:三郎、左衛門尉[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条時頼 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪盛重 |
兄弟 | 盛高[2]、盛経、盛頼[2]、重願[2] |
子 | 宗経[3] |
諏訪 盛経(すわ もりつね)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。文永3年(1266年)以前には出家していたと推定され[4]、法名は真性(しんしょう)[5]。
史料における初見は、建長3年(1251年)、藤原頼嗣の祖母が死去した折、北条時頼の使者として上洛したという『吾妻鏡』の記載[6]である。同5年(1253年)正月の御成始の馬引き [7]、同8年(1256年)正月の御成始の馬引き[8]を務め。文永3年(1266年)には宗尊親王将軍の解任と京への送還に先立って、急使として上洛している[7]。
佐藤業連、平頼綱らと共に被官として政務の中枢に携わった人物であり、『建治三年記』には寄合衆としての活動が記載されている。
脚注
[編集]- ^ 『吾妻鏡』建長5年(1253年)1月3日条、康元元年(1256年)1月5日条。
- ^ a b c 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館、編:黒板勝美、国史大系編修会)P.101-102。
- ^ 『尊卑分脈 第3篇』P.101。
- ^ 『吾妻鏡』文永3年(1266年)6月19日条に「諏方三郎左衛門入道」とある。
- ^ 『尊卑分脈 第3篇』P.102では盛経の弟・盛頼の項に「出家真性」と書かれているが、「香取社姫殿遷宮用途注文」(『香取神社文書』)に「諏方三郎左衛門入道真性」と記されていることから、「三郎左衛門」の通称を持つ盛経の法名と考えられており(『国史大辞典』、細川論文・脚注(38))、『系図纂要』ではこの説を採用している。
- ^ 『吾妻鏡』建長3年(1251年)11月27日条。但し、名は「諏方三郎盛綱」と記載されている。
- ^ a b 『吾妻鏡』建長5年(1253年)1月3日条
- ^ 『吾妻鏡』建長8年(1256年)1月5日条