諸井四郎
表示
諸井 四郎(もろい しろう、1869年2月25日〈明治2年1月15日〉[1] - 1954年〈昭和29年〉)は、武蔵国児玉郡本庄宿(現在の埼玉県本庄市)出身の明治期から昭和期にかけての日本の実業家。
略歴
[編集]中山道で最大の宿場町であった本庄宿(明治22年より児玉郡本庄町)の出身。東諸井家10代目当主である諸井泉衛(1830-1885)[2]は五男二女を授かり、四朗はその四男として生まれた。1900年(明治33年)に東京帝国大学を卒業し、京釜鉄道会社に入社。会計課長となるが、鉄道の国有化にともない退社する(1908年)。東亜製粉会社を組織し社長に就任するも、1925年(大正14年)日本製粉会社と合併してこの会社は消失。その後、西武鉄道会社、秩父鉄道会社、東京毛織会社の取締役を兼務し、1933年(昭和8年)に日本煉瓦製造会社専務取締役となり、兄である恒平の没後に同会長となる。85歳で没し、墓所は埼玉県の安養院。
家族・親族
[編集]- さく(佐久、母)- 三代・渋沢宗助の二女。
- せき(妻)- 柿沼谷蔵の長女[3]。
- 諸井逸郎(長兄)- 諸井泉衛の長男[4]。
- 諸井恒平(次兄)- 諸井泉衛の二男。東諸井家11代目当主となった。秩父セメントの創設者であり、その長男・貫一は日本経営者団体連盟(日経連)の初代会長を務めた。
- 諸井時三郎(三兄)- 諸井泉衛の三男。夫婦共に書道の大家・西川春洞の門弟であり、春洞門七福神に数えられた。
- 諸井六郎(弟)- 諸井泉衛の五男。外交官となり陸奥条約の改正に尽力した[5]。
兄弟の中でも最も長く生きた四郎は、弟である六郎の没後『諸井六郎君追悼遺芳録』の中でその性格について色々と語っている。
脚注
[編集]- ^ 諸井四郎(第4版) - 『人事興信録データベース』
- ^ 本庄市史編集室 編『本庄市史』 通史編 2、本庄市、1989年3月、1093頁。NDLJP:9644418/566。
- ^ 「柿沼谷藏 」日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース(名古屋大学)
- ^ 故諸井公使追憶会委員 編『諸井六郎君追悼遺芳録』諸井忠一、1941年、8頁。NDLJP:1057863/30。
- ^ 故諸井公使追憶会委員 編『諸井六郎君追悼遺芳録』諸井忠一、1941年、8頁。NDLJP:1057863/30。
参考文献
[編集]- 『本庄人物事典』
- 諸井忠一著 『諸井六郎君追悼遺芳録』