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谷信讃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日 - 1962年昭和37年)3月5日)は、高野寺第4世住職高野山真言宗宿老・宗機顧問。板垣会館設立発起人[1]

来歴

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明治11年(1878年1月11日徳島県板野郡鳴門村(現・鳴門市)に生まれる[2]。明治28年(1895年)、高野中学校に入学[3]。明治31年(1898年)、同校卒業後、高野山大学へ進学。さらに京都東寺専修学校に学ぶ。同校卒業後、郷里に戻り、徳島県麻植郡重楽寺の住職となる。のち、同県板野郡瀬戸町吉祥寺の住職に転任。さらに同県里浦村師跡・宝珠寺の住職に転じ、鳴門村・潮明寺と兼務した。大正11年(1922年)、高知県高知市・高野寺の第4世住職に就任。高野寺の檀家女性を集めて「密教婦人会」を組織する[3]。以来、方面委員、社会事業協会に加わり、社会事業関連で表彰を受けること数回に及ぶ[2]

板垣会館建設事業

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昭和8年(1933年7月16日高野寺で行われた、板垣退助第15回忌法要(施主:財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会)の席において、谷信讃住職は、自由民権運動ならびに板垣退助を顕彰する施設「板垣会館」の建設を発起[1]。翌年(1934年)、趣意書を起草し高知県医師会会長・片山徳治ら40名を集めて「板垣会館建設準備会」を組織した。さらに協賛者を募り、昭和10年(1935年1月19日、高野寺に、横山又吉、溝淵幸馬、葛目成茂、富田健助、宮地元治、有岡太吉、福永保重、中内源馬、宮地命壽、黒岩直喜、山崎寅熊、濱田猪三治、山本嘉太郞、近澤明吉、善波功、甲藤義治、永野常久万、島崎猪十馬、山本正心、久保田直巳、山本忠節、長田虎兎馬、竹内英省、泉谷彦治、山本成之、松村龍三、井川長太郞、服部天涯、安藝元久、吉田竹馬、門田稻城、楠目虎治、岡林林次、中島裕利、宮地正淳、海地傳太郞、細川藤吉、入交義兼、入野丑治、武山壽雄、須賀實吉、森田則高、緒方正雄、山縣弘道、千頭正意、堀内造、杉本竹次、安部幸長、齋山又吉、岩谷惣吉、松高龍海、近森昌訓、大西正太郞、西川壽惠吉、安藝義清、石黒正子、長尾正元、池田永馬ら58名が相会して「板垣会館建設後援会」を創設した[1]。顧問は近衛文麿頭山満尾崎行雄望月圭介岡崎邦輔安達謙蔵小久保喜七国沢新兵衛菅原傳日野国明泊武治が就任[1]。同年末、高知巡業中の友綱玉錦一行に建設計画の協力を打診。さらに野村茂久馬議員に相談の上、藤本尚則を介して頭山満に助力を請い、頭山は即諾して東京角力協会に協力を要請。これによって、東京角力協会が会館建設の協力を承諾し、春場所終了後の昭和11年(1936年6月5日に「板垣会館建設寄附興行」を行うことに決定。また胎中楠右衛門は、頭山、望月両氏と共に「板垣会館寄附相撲後援会」を組織し、各界の名士113名を集めて板垣会館建設を応援した。これによって、京都では第三高等学校校長・森氏が協力を表明、大阪では大阪朝日新聞社久琢磨が協力を表明[4]。さらに久琢磨を通じて玉錦のライバルであった天龍関も「板垣伯報恩相撲」に賛同の意向を表明した為、大阪朝日新聞社の一室に「板垣会館寄附相撲後援会」の事務局を設け、東京に次いで大阪でも「板垣会館建設寄附興行」を行ってもらえるよう協力を請う[4]。その結果、昭和12年(1937年1月17日、梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」が興行された[1]。同年4月6日(板垣退助岐阜遭難記念日)を機して、板垣会館を高野寺内に建設落成。記念式典には、頭山満をはじめ、板垣退助長女・片岡兵子らが臨席した[4]。翌7日には、板垣会館2階の講堂で、憲政功労者の慰霊祭が挙行され、板垣退助をはじめ、谷重喜、島本仲道、坂本直寛北川貞彦宮地茂春安芸喜代香らの悪戦苦闘の歴史が回想された[1][4]

板垣会の創設

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板垣会館が建設されたことにより、昭和12年(1937年7月16日、板垣退助法要後の総会決議を経て、同8月「板垣会館建設後援会」は「板垣会」と名称変更[5]。顧問(近衛文麿頭山満尾崎行雄望月圭介岡崎邦輔安達謙蔵小久保喜七国沢新兵衛菅原伝日野国明泊武治[6])、その他組織もそのままとし、池田永馬を会代表・兼常務理事、石黒正子、西川寿恵吉、大西正太郎、長尾正元、桧垣信顕を会の実務を扱う役員として発足した[5]

当時、板垣退助の慰霊・顕彰を行う組織として、高知市役所内に事務局を置く「財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会」が存在した。この組織は板垣退助の銅像・記念碑の建立および管理を主たる目的として設立されたが、支那事変の勃発以降、その後の大東亜戦争の戦況拡大により、 政府は昭和16年(1941年)に金属類回収令を公布。昭和17年(1942年)5月9日金属回収令による強制譲渡命令を公布、5月12日施行した。美術的価値の高い仏像や、尊崇の対象となる銅像に関しては、除外対象や猶予が設定されたため、建設同志会は、昭和18年(1943年2月25日、名称を「財団法人板垣伯銅像保存会」に変更し、銅像を保存管理している団体である旨を内外に広く明らかにした。しかし、戦況の拡大は著しく同年8月11日、全面的改正された金属供出令(勅令第667号)が施行され、高知城公園の板垣退助像もその対象となり、同年9月2日、銅像は応召出征することとなった[7]。9月2日に行われた「板垣伯銅像出陣壮行式」の後、9月4日最期の銅像撮影を経て、9月9日、取外し作業を開始し、同12日、完了を経て「財団法人板垣伯銅像保存会」は、会の目的を失くしたため、昭和20年(1945年)5月10日、「板垣会」と合併して名称変更し「財団法人板垣会」として再編。同時に「板垣会館寄附相撲後援会」の諸氏もこれに合流した。この財団法人板垣会は、現在、特定非営利活動法人板垣会として高知市・高野寺で活動を継続しており、さらに全国組織としては、財団法人板垣会会長・寺尾豊が昭和43年(1968年)に「板垣退助先生顕彰会」を組織し(現・一般社団法人板垣退助先生顕彰会)として続いている[1]

晩年

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昭和26年(1951年)、高野山真言宗の大僧正に補任せられ、同28年、宿老。37年、宗機顧問となる[2]。昭和37年(1962年3月5日高野寺で入寂。享年85歳[2]

著書

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補註

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  1. ^ a b c d e f g 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2021年8月1日閲覧。
  2. ^ a b c d 『高知県人名事典』高知県人名事典編纂委員会編、高知市民図書館、昭和46年(1971年)
  3. ^ a b 『板垣会館について』今井章博著
  4. ^ a b c d 『頭山精神』藤本尚則著
  5. ^ a b 『憲政と土佐』池田永馬編、板垣会、昭和16年(1941年)、273-274頁
  6. ^ 『憲政と土佐』池田永馬編、板垣会、昭和16年(1941年)、269頁
  7. ^ 『板垣退助先生銅像供出録』池田永馬編、板垣会、昭和18年(1943年)11月20日

参考文献

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