豊宗広人
表示
時代 | 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位下・主計頭 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 堅部(または竪部)使主→豊宗宿祢 |
豊宗 広人(とよむね の ひろひと)は、平安時代初期の貴族。氏姓は堅部(または竪部)使主のち豊宗宿祢。官位は従五位下・主計頭。
経歴
[編集]桓武朝後半に外従五位下・左大史に叙任される。延暦19年(800年)大外記に任ぜられると、桓武朝・平城朝・嵯峨朝の三朝約15年に亘ってこれを務める。桓武朝末の延暦25年(806年)堅部使主から豊宗宿祢に改姓した。
平城朝では大外記を務める一方で、山陰道観察使判官・主税助・陰陽助・主税頭などを兼帯し、大同3年(808年)には内位の従五位下に叙せられている。
嵯峨朝の弘仁7年(816年)主計頭に転じた。
官歴
[編集]注記のないものは『日本後紀』による。
- 時期不詳:外従五位下。左大史
- 延暦19年(800年) 2月16日:兼大外記
- 延暦21年(802年) 正月22日:兼上総大掾[1]。日付不詳:止左大史?[1]
- 延暦25年(806年) 正月5日:堅部使主から豊宗宿祢に改姓
- 大同2年(807年) 2月29日:兼主税助[1]。11月22日:兼陰陽助、止主税助[1]
- 大同3年(808年) 正月25日:従五位下(内位)。10月1日:兼主税頭、山陰道観察使判官・陰陽助如故。11月27日?:止陰陽助[1]
- 大同4年(809年) 正月23日:兼肥後介、主税頭大外記如故。9月14日:止主税頭[1]
- 弘仁3年(812年) 4月19日:兼安芸介、大外記如故
- 弘仁7年(816年) 正月10日:主計頭[1]