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豊田収

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊田 収
とよだ おさむ
豊田収の肖像写真
生年月日 1882年11月25日
出生地 日本の旗 日本
鳥取県八橋郡由良村
(現東伯郡北栄町
没年月日 (1969-07-24) 1969年7月24日(86歳没)
出身校 東京帝国大学
前職 鉄道官僚
所属政党 立憲政友会
昭和会
立憲政友会革新同盟
翼賛議員同盟
翼賛政治会
大日本政治会
日本進歩党
配偶者 豊田登美子
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豊田 収(とよだ おさむ、1882年明治15年)11月25日 - 1969年昭和44年)7月24日)は、日本教育者政治家衆議院議員を6期務めた。青山学院大学講師中央大学講師も務めた[1]

父は教育者の豊田太蔵。国土交通官僚の竹歳誠国土交通事務次官内閣官房副長官など歴任)は豊田のの孫にあたる。

経歴

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鳥取県八橋郡由良村(現東伯郡北栄町)出身。

1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業[1]オックスフォード大学に留学[1]

帰国後鉄道書記官、鉄道監察官を歴任する[1]

1928年(昭和3年)に立憲政友会公認で第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選[2]、以降総選挙に連続6回当選[1]岡田内閣大蔵参与官鉄道会議議員、土木会議議員、鈴木内閣大東亜政務次官となる[1]1935年(昭和10年)には政友会を離党して昭和会の結党に参加した[3][4]

戦後は1953年第3回参議院議員通常選挙鳥取県選挙区から無所属で出馬するが、3位で落選した。

人物像

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宗教禅宗[5]趣味は育英事業[5]

激しい政務の傍ら、郷土における有為な人材育成を忘れず、私学経営のみならず各種育英、奨学事業に一生を捧げた[6]

家族・親族

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  • 父・太蔵(教育者)
    1856年安政3年)[6]生 - 1937年昭和12年)[6]
    八橋郡由良宿農家に生まれた豊田太蔵は、ここに中学校を建て、それを経営することに生涯をかけた[7]
    三女竹歳むめは次のように述懐している[8]。「諸事ともかく自分の考えどおり運ばないこともあって、家族一同ともども言葉に尽せない苦労の連続でありました[8]。一部の親戚からもこの際学校経営は思い止まるよう忠言もありましたが、父の初心はがんとして動かず、死の直前まで学校の育成発展に終始したのであります[8]」。
  • 母・たか[5]
  • 姉・嘉女(鳥取県、石井文次郎に嫁す[9]
  • 都留(同県、池上巍に嫁す[9]
    むめ(同県、竹歳敏夫に嫁す[9]
    加津(同県、石井良三に嫁す[9]
  • 香川県、福井まち三女種子の養子[9]
    分家[9]
  • 妻・登美子多額納税者農業[10]、市橋昌晴[9]
  • 長女[9]
  • 三男[9]
  • 二女[9]
  • 三女[9]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『政治家人名事典』362頁
  2. ^ 第16回衆議院議員選挙 - 鳥取全県区
  3. ^ 昭和会結党後の第19回衆議院議員総選挙で豊田は昭和会公認で立候補し当選している。詳しくは第19回衆議院議員選挙 - 鳥取全県区を参照。
  4. ^ 内田鉄相、望月逓相ら政友会脱退組が組織『中外商業新報』昭和10年12月24日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ a b c 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ト四八-四九頁
  6. ^ a b c 『鳥取県大百科事典』734頁
  7. ^ 『鳥取県郷土が誇る人物誌』155頁
  8. ^ a b c 『鳥取県百傑伝』419頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k 猪野三郎監修『第十二版 大衆人事録』(昭和12年)東京・四七二頁
  10. ^ 猪野三郎監修『第十二版 大衆人事録』(昭和12年)鳥取・一頁

参考文献

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  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 734頁
  • 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)362頁
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)423頁

外部リンク

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