豊積神社
豊積神社 | |
---|---|
拝殿(左)と大イチョウ(右) | |
所在地 | 静岡県静岡市清水区由比町屋原185 |
位置 | 北緯35度6分18.7秒 東経138度33分29.9秒 / 北緯35.105194度 東経138.558306度座標: 北緯35度6分18.7秒 東経138度33分29.9秒 / 北緯35.105194度 東経138.558306度 |
主祭神 | 木之花佐久夜毘売命 |
社格等 |
式内社(小) 駿河国二宮 旧郷社 |
創建 | (伝)延暦10年(791年) |
本殿の様式 | 流造 |
例祭 | 10月14日[1] |
地図 |
豊積神社(とよづみじんじゃ)は、静岡県静岡市清水区にある神社。式内社、駿河国二宮で、旧社格は郷社。
祭神
[編集]祭神は次の1柱[1]。
- 木之花佐久夜毘売命 (このはなさくやひめのみこと)
歴史
[編集]概史
[編集]社伝では、延暦10年(791年)の創建であるという[2]。また坂上田村麻呂は東征の途中で戦勝を祈願、そして帰途に戦勝祝いとして神楽を奉納したといい、お太鼓祭(県指定無形民俗文化財)の起源はその神楽にあるという[3]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では駿河国廬原郡(庵原郡)に「豊積神社」と記載があり、当社をこれに比定する説が有力視される[2][注 1]。
寛文年間(1661年-1673年)頃の偽書とされる『駿河国風土記』では、「豊積神社或止由気神社日本武尊祭之地也、国中之二宮也」と記載されていることから、当社は駿河国において富士山本宮浅間大社(一宮)に次ぐ二宮の地位にあったと推測されている[4]。ただし、同記でそのように記す根拠は明らかではない[4]。
江戸時代の朱印地は16石余[2]。なお、天正17年(1589年)の文書に見えるように、近世には「浅間」とも称していた[2]。享保21年(1736年)の口上書では、「豊積浅間社」と称したうえで、式内社「豊積神社」の後裔と主張している[2]。
明治維新後、明治6年(1873年)3月に近代社格制度において郷社に列した[1]。
神階
[編集]- 正五位下 (『駿河国神名帳』)[4] - 表記は「豊積天神」。
境内
[編集]本殿は総欅造の流造で、銅板葺[3]。棟札によれば文政8年(1825年)の造営であるというが、それ以前では慶長5年(1600年)の造営、享保17年(1732年)の造替があったという[3]。屋根は元々檜皮葺であったが、明治22年(1889年)に銅板葺に葺き替えられた[3]。その後、昭和28年(1953年)に大修理を経て現在に至っている[3]。
-
本殿
-
拝殿
摂末社
[編集]境内社は次の通り[3]。
- 白髭神社 - 祭神:猿田彦神
- 5社
- 山宮神社 - 祭神:大山祇神
- 日枝神社 - 祭神:大山咋命、速須佐之男命
- 須賀神社 - 祭神:建速須佐之男命
- 稲荷神社 - 祭神:倉稲魂命
- 磯前神社 - 祭神:大国主命、事代主命
- 1社
-
白髭神社と後背にクスノキ
-
5社合祀社
-
境内社
文化財
[編集]静岡県指定無形民俗文化財
[編集]- 由比のお太鼓祭 - 平成10年11月17日指定。
脚注
[編集]注釈
- ^ 式内社「豊積神社」については、他に静岡市清水区庵原町の豊由気神社に比定する説がある。
出典
参考文献
[編集]- 現地説明板
- 明治神社誌料編纂所編 編「豊積神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。
- 『明治神社誌料 府県郷社 上』(国立国会図書館デジタルコレクション)908-909コマ参照。
- 「豊積神社」『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。
- 中世諸国一宮制研究会編 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708。