赤井春海
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赤井 春海 | |
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生誕 |
1876年6月12日 千葉県 |
死没 | 1954年12月14日(78歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1897 - 1930 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第2師団長 歩兵第4旅団長 歩兵第64連隊長 |
戦闘 |
日露戦争 シベリア出兵 |
赤井 春海(あかい はるみ、1876年(明治9年)6月12日[1][2] - 1954年(昭和29年)12月14日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]千葉県出身[1][2][3]。赤井潔の二男として生れる[1]。陸軍幼年学校を経て、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる[1]。日露戦争に近衛歩兵第4連隊中隊長として出征[1]。1904年(明治37年)10月に戦傷を受ける[1]。陸士教官を経て、日露戦争のため中退した陸軍大学校に復校し、1907年(明治40年)11月、陸大(19期)を卒業した[1][2][3]。
参謀本部付、参謀本部員、陸大教官を経て、1911年(明治44年)12月、ドイツ駐在となった[1]。歩兵第10連隊大隊長、歩兵第71連隊付、名古屋連隊区司令官などを歴任し、1917年(大正6年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵第64連隊長に就任[1][3]。陸軍省人事局恩賞課長、参謀本部課長を経て、1922年(大正11年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第4旅団長となりシベリア出兵に従軍[1][2][3]。
朝鮮軍参謀長を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍中将に進み陸軍運輸部長に就任[1][2][3]。1927年(昭和2年)7月、第2師団長に親補された[1][2][3]。1930年(昭和5年)12月に待命となり、翌月に予備役編入となった[1][2][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
家族親族
[編集]著書
[編集]- 『明治大帝』(共著)大日本雄弁会講談社、昭和2年11月1日発行