一色公深
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(足利公深から転送)
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 弘長3年(1263年)10月23日 |
死没 | 元徳2年2月17日(1330年3月7日) |
別名 | 大夫法師、宮内卿律師、一色阿闍梨 |
戒名 | 孝厳相公宝持寺 |
墓所 | 埼玉県幸手市宝持寺 |
官位 | 左京大夫 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 清和源氏 足利氏、一色氏 |
父母 | 父:足利泰氏、母:桜井判官代某娘 |
兄弟 | 斯波家氏、渋川義顕、足利頼氏、石塔頼茂、公深、上野義弁、小俣賢宝、加古基氏、覚海 |
妻 | 今川国氏娘 |
子 | 頼行、範氏 |
一色 公深(いっしき きみふか/こうしん[1])は、鎌倉時代の武士。一色氏の祖[2]。左京大夫[1]。入道して、大夫法師と号す[1]。宮内卿律師、一色阿闍梨[1][3]。また公深は法名ともいう。
事績・経歴
[編集]弘長3年(1263年)10月23日、誕生した[4][5]。足利泰氏の七男[1]。母は桜井判官代某の娘[1][3]。
はじめ三河国幡豆郡吉良荘一色に住み、一色を称した[1]。元応元年(1319年)[4]、下総国葛飾郡田宮荘幸手(現在の埼玉県幸手市中一丁目)に移住し、同地に幸手城を築いたという[6]。
その後、領地替えのため、下総国小文間(茨城県取手市)、次いで木野崎村に入った[4]。
元徳2年(1330年)2月17日、死去[1]。孝厳相公宝持寺と号す[1]。幸手の宝持寺に葬られた[1]。
家族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 一色町誌編纂委員会 編『一色町誌』一色町役場、1970年4月15日。
- 『一色町誌』(復刻版)臨川書店、1987年7月10日。ISBN 4-653-01578-3 。(要登録)
- 今谷明・藤枝文忠 編 『室町幕府守護職家事典(上) 』 1988年、新人物往来社、ISBN 4-404-01501-1 C1521.
- 「巻第八十五 清和源氏 義家流 足利支流 一色」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日 。
- 堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第二 』 1964年、続群書類従完成会。
- 『尊卑分脈』 第三輯第十二囘、吉川弘文館、1904年6月25日 。