コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

一色公深

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利公深から転送)
 
一色 公深
時代 鎌倉時代
生誕 弘長3年(1263年)10月23日
死没 元徳2年2月17日1330年3月7日
別名 大夫法師、宮内卿律師、一色阿闍梨
戒名 孝厳相公宝持寺
墓所 埼玉県幸手市宝持寺
官位 左京大夫
幕府 鎌倉幕府
氏族 清和源氏 足利氏一色氏
父母 父:足利泰氏、母:桜井判官代某娘
兄弟 斯波家氏渋川義顕足利頼氏石塔頼茂公深上野義弁小俣賢宝加古基氏、覚海
今川国氏
頼行範氏
テンプレートを表示

一色 公深(いっしき きみふか/こうしん[1])は、鎌倉時代武士一色氏の祖[2]左京大夫[1]。入道して、大夫法師と号す[1]宮内卿律師、一色阿闍梨[1][3]。また公深は法名ともいう。

事績・経歴

[編集]

弘長3年(1263年)10月23日、誕生した[4][5]足利泰氏の七男[1]。母は桜井判官代某の娘[1][3]

はじめ三河国幡豆郡吉良荘一色に住み、一色を称した[1]元応元年(1319年[4]下総国葛飾郡田宮荘幸手(現在の埼玉県幸手市中一丁目)に移住し、同地に幸手城を築いたという[6]

その後、領地替えのため、下総国小文間(茨城県取手市)、次いで木野崎村に入った[4]

元徳2年(1330年)2月17日、死去[1]。孝厳相公宝持寺と号す[1]。幸手の宝持寺に葬られた[1]

家族

[編集]

○出典:『尊卑分脈』[7]、『寛政重修諸家譜』[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 寛政譜 1922, p. 480.
  2. ^ 寛政譜 1922, p. 10.
  3. ^ a b 尊卑分脈 1904, p. 85.
  4. ^ a b c 木野崎城跡”. 野田市 (2023年10月11日). 2024年7月4日閲覧。
  5. ^ 一色町誌 1987, p. 118.
  6. ^ 『室町幕府守護職家事典』所収、上村喜久子「一色氏の系譜と事歴」142頁。
  7. ^ 尊卑分脈 1904, pp. 81, 83–87.

参考文献

[編集]
  • 一色町誌編纂委員会 編『一色町誌』一色町役場、1970年4月15日。 
    • 一色町誌』(復刻版)臨川書店、1987年7月10日。ISBN 4-653-01578-3https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9571922 (要登録)
  • 今谷明・藤枝文忠 編 『室町幕府守護職家事典(上) 』 1988年、新人物往来社、ISBN 4-404-01501-1 C1521.
  • 巻第八十五 清和源氏 義家流 足利支流 一色」『寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月18日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/250 オープンアクセス
    • 堀田正敦等編 『新訂 寛政重修諸家譜 第二 』 1964年、続群書類従完成会。
  • 尊卑分脈』 第三輯第十二囘、吉川弘文館、1904年6月25日https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991591/44 オープンアクセス

外部リンク

[編集]