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進鴻渓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
進漸
時代 幕末明治
生誕 文政4年10月15日1821年
死没 明治17年(1884年11月21日1884年
改名 村上漸、藤井漸、進漸
別名 幼名:和作、通称:昌一郎、字:于逵、号:鴻渓、鼓山、祥山、帰雲[1]
戒名 鴻渓院釈静儒伯居士[1]
墓所 川面町玉の坂
備中松山藩
氏族 村上氏、藤井氏、進氏
父母 村上吉敦、村上信満娘、藤井延年
藤井延年次女
進鳴門、梁州
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進 鴻渓(しん こうけい)は幕末明治儒学者備中松山山田方谷江戸佐藤一斎に学び、松山藩に出仕した。維新後、備前天城中学、堺県師範学校栃木県師範学校の他、岡山県各地、赤穂儒学を教えた。

生涯

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修学

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文政4年(1821年)10月15日、備中国阿賀郡唐松村(岡山県新見市唐松)に村上吉敦次男として生まれた[1]。4、5歳で句読を受け、12歳で新見藩丸川鹿山に入門して儒学を学び、18歳で上房郡川面村藤井延年養子となった[1]山田方谷牛麓舎に入門、後に塾頭となった[2]

天保14年(1843年)師方谷の方針に則り江戸に留学して昌平黌佐藤一斎に学んだ[3]。同門には柳沢伯民南摩子張菅野狷介等がおり、また同郷坂谷子絢と交流した[1]

仕官

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4年間の留学の後、川面村に帰郷して新居を建て、私塾を開いた[1]弘化3年(1846年)3人扶持で備中松山藩に取り立てられた[2]嘉永5年(1852年)8人扶持中小姓[2]となり、松山城下に移り、藩校有終館会頭となった[1]安政3年(1856年)50石で学頭となった[1]

安政2年(1855年)苗字を進氏と改め、安政4年(1857年)山田方谷旧宅に移った[1]

文久元年(1861年)吟味役となり、大坂に使いし、文久3年(1863年)取次役兼文武目付兼学頭として京都に赴任した[1]。元治元年(1864年)松山藩は隣藩との修好を画策し、岡山藩龍野藩津山藩へ使いした[1]。また、幕府に長州征討を命じられ、広島に先遣して兵站を備え、帰国後大坂に行き征長総督徳川慶勝の節度を受けた[1]

慶応元年(1865年)有終館学頭兼町奉行、後に撫育総裁兼農兵頭隣好方となった[2]。慶応2年(1866年)朝敵として城が鎮撫使に囲まれると、井上権兵衛の副使として恭順の意を伝えた[1]

明治2年(1869年)子昭に家督を譲り文教官、4月藩権大参事公議人となったが、病のため辞職し、少参事兼文教官となった[1]

教育活動

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明治3年(1870年)川面村に帰郷し、廃藩置県により藩職を辞し、私塾閑閑舎を開いた[1]明治6年(1873年)岡山県の求めで備前天城中学教授となり、堺県師範学校教官に転じ、私塾潜竜舎を開いた[1]。明治10年(1877年)堺県師範学校を辞職後[1]、3月赤穂の人々に招かれて学校を開き、学舎東隣にあった随鴎寺に因み随鴎学舎と号した[4]。明治12年(1879年)3月岡山に帰り[5]備中国中井村や美作国落合村で教えた[1]

明治15年(1882年)7月11日栃木県師範学校長兼一等教諭、同日栃木県第一中学校長となり[6]、11月栃木義塾遷喬学舎設立に参加した[7]。なお、師方谷は真庭郡久世に遷喬塾を開いており、これらは詩経・小雅「出自幽谷、遷于喬木。」[8]に由来する[9]

明治16年(1883年)5月病気のため川面に帰り、明治17年(1884年)9月3日中風を発症、まもなく結核を併発し、11月21日死去した[1]。享年64。墓所は川面町玉の坂[7]

川面町下市場711番地の自宅閑閑舎跡には高梁小学校長横見登が居住し[10]昭和63年(1988年)7月2日下市場金刀比羅宮境内に顕彰碑が建てられた[7]

著書

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  • 『春窓私録』
  • 『冬夜漫筆』
  • 『仙槎奇篇』 - 明治10年(1877年)11月25日から29日までの小豆島紀行[11]
  • 『鴻渓遺稿』

人物

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肥満であり、飲むと笑い上戸になったため、通称昌一郎をもじり笑一郎と渾名された[12]

門人

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家族

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  • 父:村上吉敦 - 幼名は伍蔵、通称は佳一郎、号は松園。村上信満養子。醸造業で財を成し、弘化年間永代苗字帯刀御免、文久年間士格並[13]。明治14年(1881年)9月7日86歳で病没[5]
  • 母:嘉代 - 村上信満娘[14]
  • 兄:村上俊蔵吉利[14]
  • 妹:次 - 山田幾右衛門吉徳を婿とし、村上家を再興した[15]
  • 養父:藤井仲右衛門延年 - 川面村の人[1]
  • 妻:藤井延年次女[16]
  • 長男:進鳴門 - 有終館助教。
  • 次男:進梁州 - 札幌農学校教授、台湾総督府殖産局員。
  • 長女 - 国分氏に嫁いだ後、実家に戻り、横内氏に嫁いだ[1]

真庭市井手紘一郎は村上俊蔵娘初子の曾孫[17]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 進 2004, pp. 12–18.
  2. ^ a b c d 進 2004, pp. 52–53.
  3. ^ 菊池 2005, p. 101.
  4. ^ 菊池 2005, p. 102.
  5. ^ a b 菊池 2005, p. 103.
  6. ^ 進 2004, p. 扉.
  7. ^ a b c 菊楽 1987.
  8. ^ ウィキソース出典 伐木” (中国語), 詩經, ウィキソースより閲覧。 
  9. ^ 菊楽 1989.
  10. ^ 菊楽 1987, p. 195.
  11. ^ 菊楽 1991.
  12. ^ 菊池 2005, p. 106.
  13. ^ 菊池 2005, p. 120.
  14. ^ a b 進 2004, p. 45.
  15. ^ 進 2004, p. 46.
  16. ^ 菊池 2005, p. 99.
  17. ^ 進 2004, p. 41.

参考文献

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  • 菊池誠一「進鴻溪の思想と詩風 : 『鴻溪遺稿』の詩文を中心として」『陽明学』第17号、二松学舎大学東アジア学術総合研究所陽明学研究センター、2005年、98-122頁、CRID 1050282813008090112ISSN 09162496NAID 110006178357 
  • 菊楽末一「【人物紹介】山田方谷の高弟・進鴻渓の晩年」『高梁方谷会報』第9号、高梁方谷会会報編集委員会、1987年。 
  • 菊楽末一「鴻溪進先生の顕彰碑 高梁市川面町に建立」『高梁方谷会報』第11号、高梁方谷会会報編集委員会、1989年。 
  • 菊楽末一「播州赤穂と進鴻渓」『高梁方谷会報』第13号、高梁方谷会会報編集委員会、1991年。 
  • 進眞郎、進俊夫「進鴻溪120年祭記念誌」、人と文化社、2004年。 

外部リンク

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