達仁郷
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別称: 阿塱衛 | |
地理 | |
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位置 |
北緯--°--' 東経--°--' |
面積: | 306.4454 km² |
各種表記 | |
繁体字: | 達仁 |
日本語読み: | たつじん |
拼音: | Dárén |
注音符号: | ㄉㄚˋㄖㄣˊ |
片仮名転写: | ダーレン |
台湾語: | Ta̍t-jîn |
客家語: | Tha̍t-yìn |
パイワン語: | Tadren |
行政 | |
行政区分: | 郷 |
上位行政区画: | 台東県 |
下位行政区画: | 6村56鄰 |
達仁郷長: | 王光清 |
公式サイト: | 達仁郷公所 |
情報 | |
総人口: | 3,705 人(2015年1月) |
世帯数: | 1,462 戸(2015年1月) |
郵便番号: | 966 |
市外局番: | 089 |
達仁郷の木: | - |
達仁郷の花: | - |
達仁郷の鳥: | - |
地理
[編集]達仁郷は台東県南端に位置し、北は金峰郷と、東は大武郷と、東北は太麻里郷と、西は屏東県来義郷、春日郷及び獅子郷と、南は屏東県牡丹郷とそれぞれ接し、南東は太平洋に面している。中央山脈南段の大武山南麓に位置するため、総面積の90%以上が丘陵または山岳地となっており、平地は極めて少ない。郷内は大武渓、安朔渓、楓港渓などが流れている。住民の多くはパイワン族が占めている。
歴史
[編集]達仁郷は古くは原住民であるパイワン族の活動範囲であり、清代には阿塱衛社が設けられた。「阿塱衛(アロエ、アジョゲツ)」とは「広大な物が漸く縮小すること」をいい、四方に散在していた社民が漸次集合して阿塱衛社を形成したのでこの名が出たという。[1]
日本統治時代、達仁郷の原住民を「トアバル」、「大板鹿」、「タリリク」、「チョカクライ」、「阿塱衛(1926年以前は高雄州潮州郡管下)」の5社に分割し、台東庁大武支庁の管轄とした。その後「大武区」、「大武庄」と行政の変更が行なわれたが、何れも警察による行政、教育、衛生事業が行なわれていた。戦後は台東県大武郷に改編されたが、1946年に大武郷から分割され、安朔渓河口部に位置する「達仁村」を郷名に採用し、達仁郷が設置されて現在に至っている。
また、日本統治時代には森永製菓の農場があり、戦後もそのまま森永村の名前として残っている[2]。
経済
[編集]行政区
[編集]村 |
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台坂村、土坂村、新化村、安朔村、森永村、南田村 |
歴代郷長
[編集]代 | 氏名 | 任期 |
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教育
[編集]国民中学
[編集]国民小学
[編集]交通
[編集]種別 | 路線名称 | その他 |
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省道 | 台9線 | 南廻公路 |
省道 | 台26線 | |
県道 | 県道199号 (台湾) |
観光
[編集]出典
[編集]- ^ 安倍明義編 『臺灣地名研究』 杉田書店、昭和十三年、二九七頁。
- ^ “日本と台湾、「チョコ」が結ぶ長く深い意外な縁”. 東洋経済新報社 (2019年5月22日). 2019年12月29日閲覧。